たまたまタマ

バニラダヌキ

第1章 お早うございますの猫又さん

1 おたくのニート、部屋を出る


 まずはじめに、はっきりと申し上げておきたい。


 三十過ぎのニート、三十過ぎの引きこもり男、三十過ぎのロリおた野郎などに、もしあなたが嫌悪感を抱かれるなら、今すぐこのブラウザを閉じていただきたい。他のタブが開いているなら、このタブだけ閉じてもよろしい。あるいは『戻る』のアイコンをクリックしてもらってもいい。


 もっともあなたが、なにひとつ取り柄のない無価値なおのれの存在を、他者に対する狭隘きょうあいな優越感によってかろうじて粉飾しながら死ぬまで無駄に生き続けるタイプの方であるなら、他者への嫌悪感すら己の優越感に誤変換できるであろうから、このまま読み進めても問題ない――と思ったら大間違いである。


 そのような方々に対しては、三十過ぎて定職もなく親の家の二階に引きこもっている百貫デブのロリおた野郎、つまり俺のほうが多大な嫌悪感を抱いてしまうので、これから力いっぱい嫌がらせ級にアブナい話を披露してやろう、などと画策したりもしている。


 であるから、ここはやはり速やかにたもとを分かち、今後たまたま路上やネット上ですれ違っても、お互い知らんぷりしとくのが世界平和のためだろう。

 EUうんぬんの国民投票で無理矢理白黒つけてしまった英国や、黴臭い了見と無節操な胴間声をもって万事に白黒つけないと気の済まない能天気親爺を大統領に据えてしまった米国の大騒ぎなどを見てもわかるように、世の中、ドドメ色のまま棚上げしといたほうが無難な局面は多々ある。

 個人も国家も全人類も、どのみち滅びるまではドドメ色、トワイライトゾーンに他ならぬ現実世界の中で右往左往するしかないのだ。


 などと大仰に見得をきってはみたものの、老朽化した木造家屋から一歩も外に出ず、雨戸を閉ざした二階の六畳間と階下の風呂場を行き来するだけの生活をだらだらだらだら半年以上も続けていると、いかにバーチャル上等な俺だって、パソコンのモニターを介さないナマな世界が恋しくなる。


 よくよく考えてみれば、モニター越しの情報世界は、トワイライトゾーンですらないのである。

 古来、この日本には『たそがれ』=『誰そ彼』、『かわたれ』=『彼は誰』、そんなふたつのトワイライトがある。

 つまり現実の天然世界は、ほっといても明るくなったり暗くなったり、ドドメ色の濃淡が、おおむね一方向に変わるものなのだ。

 半刻後の明暗さえ知れぬ個人の宿世やら、国家の命運やら、全人類の行く末やらは、まあ、とりあえずちょっとこっちに置いといて。


          *


 さて、事の起こりは西暦2017年、平成29年――。


 雨音も久しい六月半ばの未明、正月からつけっぱなしの液晶モニターの前で椅子に座ったままふと目覚めた俺は、なぜか半年ぶりに、窓の雨戸を開いて外を覗いてみようという気になった。


 このところ眠るのも起きるのも同じジャージのまま椅子の上で済ませ、いいかげん腰にガタが来ていたので、気持ち以上に腰のほうが、風呂場より遠い何処いずこかへの移動を希求していたのだろう。


 寝こむ前にネットで見かけた胡乱うろんな都市伝説もどき――俺の家の近所を流れる掘割沿いの遊歩道に近頃化け猫が出没する――それは尻尾がふたつに割れた猫又らしい――いや体長二メートルに及ぶ人面の猫だ――いやいや、夜明け前や日没後に堀端をランニングしていると、猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘が、四つ足走行で横を追い抜いてゆくのだ――そのような愚にもつかぬ与太話を信じたからでは絶対にない。


 いかに現実から遊離している俺だって、現実と虚妄の間には、常に液晶画面やスクリーンや印刷物やネジの緩んだ脳味噌――他人の脳味噌であれ自分の脳味噌であれ――が挟まっているくらいのことは理解している。


 雨戸の隙間から空を見上げると、街並みの彼方にそびえるおぼろなスカイツリーの首から上を覆う濁った厚い雲は、濁ったなりに早暁そうぎょうの気配を帯びはじめていた。

 外に少しでも雨脚が窺えたら、ガタのきた椅子から崩壊寸前のベッドへ寝床を移すだけで済ませるつもりだったのだが、連日の雨は幸か不幸か小休止らしい。


 俺は「あーうー」などと呻きながら、固まった腰をぼきぼきと伸ばし、伸ばしついでにちょっとふんぞりかえったまんま、安普請やすぶしんの階段をぎしぎしと下りていった。


「お……」

 台所で朝飯を作りはじめていたお袋が目を丸くし、「お」のまんまの縦に細長い唇を引きつらせて、それこそ化け物でも見たようにつっぱらかった。

「お、おまえ」と絶句するつもりだったのか「お風呂は沸いてないよ」と言おうとしたのか、無学な俺の知るところではない。

 いずれにせよここ半年、深夜の入浴以外はいっさい階段を下りてこなかった馬鹿息子を早朝に階下で視認してしまったのだから、「お」だけでつっぱらかるのも無理はないのである。


「お……」

 まだそれ以上言葉が続かないらしいので、俺はさすがに2トン積みトラック満載級の罪悪感にとらわれながら、

「――お散歩」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って、玄関に向かった。


 玄関の三和土たたきには、当然ながら、俺の足に合う履き物などひとつも出ていない。

 俺は親父のデカ足サンダルを、裸足に突っかけて家を出た。

 背後の屋内から、奥の親父を起こしに走るお袋の足音が、どどどどどと響いてきた。


 無為徒食かつ大飯食らいの馬鹿息子を養うために、早朝から深夜までタクシーを転がした上、いつもより早く叩き起こされる親父の災難を思い、俺の罪悪感は4トン積みトラック満載級に倍加した。

 しかし、引きこもりはじめた頃と同じ言い訳で、己の心を閉ざすしかなかった。


 俺が悪いんじゃないもんね。世間のほうが悪いんだもんね――。

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