2 おたく、再起に挑む


 実際、悪いのは世間なのである。


 馬でも鹿でも入れるような公立高校を出て、四流五流の私立大学に上がる金はなく、零細企業の正社員の座にもことごとく落ちこぼれた俺だって、去年の冬に自室に引きこもるまでは、せめて自分の食い扶持ぶちと、ロリおた関係の掛かりと、アキバ通いの電車賃くらいは自力で稼がねばと思い、せっせと各種のバイトに励んでいた。

 とくに長く勤めた隣町のコンビニでは、唯々いい諾々だくだくとブラックなシフトに応じ、事実上の店長代行を任されていたほどである。


 それがある日突然、ゆえなくして鬼畜の汚名を着せられ、御町内はもとよりマスコミやらネットやら、ありとあらゆるおおやけの場で、四方八方から石をぶつけられる羽目に陥ってしまった。

 俺が隣町の女子小学生A子ちゃん(仮名・当時十一歳)を言葉巧みに騙くらかし、ひと晩連れ回したというのである。


 冗談はULTRAヨシ子デラックス。


 俺にそんな革命的偉業を達成するほどの克己心があるなら、ネットで拾いまくったアレな実写画像でパンパンになったハードディスクを、児●法の適用条件が広がったとたんに泡を食って物理フォーマットしたり、数十枚のビデオ落としDVDを延々と叩き割ったり、関東一円あっちこっちのアヤしげな古本屋で掻き集めた昭和なら合法の写真集を、泣きながら一冊残らずシュレッダーに突っこんだりするものか。


 なのに派出所のおまわりやマスゴミの下衆げす記者どもは、やれ[COMICエルオー]を創刊号から最新号まで欠かさず揃えているだの、昭和遺産の[レモンピープル]や[漫画ブリッコ]や[ホットミルク]を全巻収集しているだの、エロゲーのパッケージが部屋の壁面を埋め尽くしているだの、ランドセルしょったドールが棚に一ダース並んでパンチラしてるだの、違法でもなんでもない無害な趣味をあたかも鬼畜の所業のごとくはやし立て、半月以上も俺を留置場に幽閉したのである。


 で、大山鳴動して鼠一匹、その鼠すら容疑者の俺ではなく女子小学生自身であり、単に親と喧嘩して発作的にプチ家出を試みただけ――そんな事実が判明してようやく釈放されたとき、すでに俺は一般世間から、今のところ罪人ではないが近日中に犯行必至のロリペド変態野郎、そんな烙印らくいんを押されていた。


 隣町のA子ちゃん(仮名・当時五年生)に恨みはない。

 親に怒られるのが嫌で、つい優しそうなコンビニのお兄ちゃんを悪役に仕立ててしまうなど無邪気の楽園、たわいないものではないか。

 この世のすべての女子小学生を、大らかに許す度量が俺にはある。


 おまわりにも恨みはない。

 まあ勾留中には脅されたり突っつかれたり泣かされたり、ひとり残らずまきざっぽで撲殺しまくりたいような思いもしたのだけれど、しょせんそれは彼らの定形業務、つまり飯の種に過ぎず、釈放時には全員ちゃんと平身低頭して謝ってくれたからである。


 見ず知らずの俺に対する世迷よまい言を、ネット上で垂れ流し続けた無数のカオナシどもにも恨みはない。

 真偽も正邪もおのれの好悪でしか仕分けできないカオナシなど、相手にするだけ時間の無駄だ。


 しかしマスゴミの下衆げすどもや、御町内の皆様だけは、生涯許せそうにない。

 後から謝罪記事を載せてくれた新聞や週刊誌など皆無だし、それらマスゴミのインタビューに「そんなことをする青年には見えなかった」と答えてくれた町の衆は、向こう三軒両隣、ただのひとりもいなかったのである。


 これでも悪いのは世間ではなく俺のほうだとあなたが言うなら、俺がわなわなと震える手で力いっぱい振り下ろす図太いまきざっぽによって、あなたの頭蓋骨が凹状に変形し、眼窩から眼球が突出し、耳から脳漿と汚血が噴出するのを覚悟していただかねばならない。


     *


 庭も塀もない長屋同然の門口から前の道に出ると、たまたま通りかかった超高級ブランド姿の痩せた老人が、歩くしかばねでも見たように、すざ、と後ずさりした。


 老人が散歩させていた、もとい上機嫌で老人を引きずっていた秋田犬は、いきなり首を後ろに引っぱられて怪訝けげんそうに振り返ったが、俺の姿を認めると即座に緊張を解き、懐かしげに挨拶あいさつしてきた。

「ぉわぉぅ」


 いかにも秋田生まれらしい律儀りちぎな顔で、ちゃんと「おはよう」が言えるこの犬とは、同じ町内にある大豪邸の瀟洒しょうしゃな柵越しに、かれこれ十年近く親交を深めている。

 ただし豪邸の主である老人は、俺のような得体の知れない雑種など、保健所で薬殺したほうがいいくらいに思っている。


「おはよう、轟天ごうてん号!」

 俺はしゃがみこんで犬の頭や顎の下をわしわし撫でながら、飼い主に対する咄嗟とっさの報復を画策していた。

 そもそもこの爺さんが「そんなことをする青年には見えなかった」とは真逆のコメントをマスゴミ相手に漏らしたあたりから、俺の受難の本番が始まったのだ。


 俺は凍結状態の老人を振り仰ぎ、本性とは無慮百億万光年を隔てた純真無垢な笑顔を浮かべ、力いっぱい朗らかに挨拶あいさつした。

「おはようございます!」


 老人はつっぱらかったまんま、もごもごと口元をうごめかせた。

「お……うぅ」

 たぶん「おはよう」と発音したつもりなのだろうが、犬よりも滑舌かつぜつが悪い。

「いやはやご無沙汰しました! どうもお久しぶりです!」

「お……おお」

 老人の引きつった顔面筋肉は、依然として歩くしかばね対峙たいじしている。


 俺は長年のコンビニ勤めで体得した、ゼロ円スマイルならぬ絶対零度スマイルで、とどめを刺した。


はお元気ですか?」


 ハイソ系女学院初等部の入学祝いに、老人がどでかいグランドピアノを買い与え、そのたどたどしくも可憐な音色を、道行く俺の耳にときおり風に乗せて届けてくれるいとけない孫娘に他意はない。


 しかし、町内一の大豪邸でこれ見よがしにふんぞり返っている政商あがりの此奴こやつだけは、断じて許せない。

 噂では、表舞台から退いた今も、『陰の御大おんたい』などと呼ばれて政財界に隠然たる権勢をふるう戦後史上の巨魁きょかいと聞くが、無産階級の衆愚だって同じ人間、魂のかさは同じなのだ。


「じゃあ、お先に! によろしく!」


 老人は、自分自身が歩くしかばねと化したように青ざめ、ひくひくと痙攣けいれんした。


 俺は明朗快活な笑顔のまま、内心に邪悪この上ないジョーカー笑いを浮かべ、凍死寸前の爺さんを残して、掘割方向に歩を進めた。


 ――よし、予期せぬ再起試合は、俺の完封勝利。

 後は野となれ山となれ。



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