3 おたく、猫に逢う


 俺の町を流れる幅30メートルほどの堀割は、町の北端を悠揚ゆうようと蛇行する荒川から分流し、四キロほど南で、なぜかまた荒川に合流している。


 過去の水運の変遷へんせんによって、そんななんだかよくわからない配置で残されたらしいが、どのみち関東平野を流れる大きめの川は、荒川にしろ江戸川にしろ利根川にしろ隅田川にしろ、徳川家康の時代から人為的にあっちこっち切ったり貼ったりされており、こうした水運目的の堀割が、昔は縦横無尽に存在したのである。


 もっともその大半は、戦後の高度経済成長期にモータリゼーションや土地不足解消のため暗渠あんきょ化してしまったが、俺の家あたりはそもそも由緒正しいゼロメートル地帯、親父が子供の頃には台風が来るたんびに地域まるごと床上浸水していたような奈落の底だから、暗渠あんきょ化も後回しにされ、本流である荒川の土手や水門が、ちょっとテコ入れされただけだった。


 ところが俺が子供の頃、突如沸騰したバブル景気でイッキに風向きが変わり、本流の護岸は直下型地震対応級に再整備され、ドブのような堀割もあっという間に浄化整備され、成金好みの高層マンションや邸宅が建ち並ぶ、都会の住宅街へと変貌したわけである。


 そんな街並みに我が家のような三丁目夕日物件が混じっているのは、ベンツのショールームにオート三輪が紛れこんだようで、いささか世間に申し訳ない気もするのだが、いかに無敵のバブル景気とて、江戸開府以来の由緒正しい貧乏人を根絶やしにしてくれなかったのだから仕方がない。


     *


 長梅雨つゆの湿気をじくじくと含んだ仄暗ほのぐらいかわたれどき、俺は厚い雲の垂れこめる堀割沿いの遊歩道を、あんがい爽快な気分で闊歩かっぽしていた。


 今の俺の視神経や脳味噌には、よほど目を凝らさないと周囲のあれこれが何物であるか何者であるか判別できないくらいの、トワイライトがちょうどいい。ここ半年、密林の雨蛙のようにまったく太陽を拝んでいなかったのだから、下手に晴れわたると失明や錯乱の恐れがある。


 しばらく見ないうちにまた増殖した高層マンションと、そこに移り住んだ数多あまたの勝ち組におもねるように、遊歩道も街灯も様変わりしていた。

 真新しくなったわけではない。逆に似非えせ江戸情緒とでもいうべき、小賢こざかしい渋味演出が施されているのだ。

 行燈あんどんっぽいデザインに変えられた街灯など、以前より明らかに照度が落ちている。路傍には不審者が身を潜められそうな茂みもあるのに、薄ぼんやりとしただいだい色の光しか発していない。


 まあ、それだけこの国は平和なのだろう。堀割に映る灯を江戸っぽくするため、公共の散策路をわざわざ暗く変える国の治安が、昔より悪化しているはずはない。

 勝ち組と負け組の格差こそ広がりつつあるにせよ、日本開闢かいびゃく以来、昭和戦中まで連綿と続いた厳然たる階級社会を思えばまだ可愛い程度だし、他の経済大国とは格差の桁が違う。強盗は少ないし暴動も起こらない。


 そんな静まりかえった舗道の先、こっちのかすかなだいだい色と、あっちのだいだい色の中間あたり――高層建築の陰となっていまだ夜を残す暗がりに、何やらちっぽけなうごめきを認め、俺は歩を進めながら目を凝らした。


「な~~~」


 弱々しい哀訴の響きに、俺は思わず声を上げた。

「おお、にゃんがいる!」

 そう口にしてしまってから、驚かして逃げられてしまっては元も子もないと、慌てて息を潜める。

 姿勢を低くし、そろそろと近づく。

 薄明かりに慣れた目で、相手に逃げるそぶりがないのを確かめ、その鼻先に人差し指を近づけてみる。


「な~~~」


 逃げないのも道理、その猫は、もう立ち上がれないほど衰弱していた。

 しぼんだ風船のように痩せ細っているので丸くなっても丸く見えず、背骨の浮いた、舗道の敷石ほども硬そうな背中が痛々しい。

 白だか黒だかぶちだか、汚れすぎてほとんど判別できないが、なにがなし若い三毛らしい感じは残っている。


 さほど寒い朝ではないのにぷるぷる震えながら、俺の指先を慕って鼻を寄せた顔の両眼は、目脂めやにでガビガビになっていた。典型的な栄養不良、重病あるいは餓死寸前だ。


 ふと見れば、ヨレヨレの尻尾が、根元から二叉に裂けている。

 昨夜ネットで見かけた噂話が、記憶に蘇った。

 先天的な奇形か幼時の裂傷か、いずれにせよこれが猫又呼ばわりされる由縁となり、忌避や虐待に繋がったのかもしれない。


「死ぬな、にゃん」

 俺は、ほろほろと落涙しながら言った。

「おまえが死んだら俺も死ぬ」


 俺にとって、生物界のヒエラルキーは、五階層に集約される。

 上から順に、


  (一)女子小学生

  (二)女子中学生

  (三)猫

  (四)犬と俺

  (五)その他の生物


 つまり、その個体がいかなる状態であれ、猫は俺より偉いのである。


 まず体温を維持しなければ――。

 俺はジャージを脱いで舗道に敷き、幻のように軽い猫を抱き上げ、そろそろと包みこんだ。

 大デブ対応の5Lだから幾重いくえにも包めたが、あちこち擦れて繊維感を失った着古しのジャージだけでは心許こころもとない気がしたので、おろしたてのTシャツも重ねて巻いた。


 猫はぐったりとして為されるがまま、それでもときおり緩慢かんまんに首を動かし、俺の顔色を窺っていた。

 ガビガビのまぶたの奥に、あんがい透き通った緑色の光が見えた。

 まだ青信号、そう思えた。

「よし、生きろ」


 次は栄養補給である。

 今の容態だとカリカリも猫缶も食えそうにないが、猫スープか猫ミルクなら飲めるだろう。

 ここから堀割をれて、地下鉄駅方向に数百メートル走れば、かつて俺が勤めていたコンビニがある。

 住宅街の片隅のちっぽけなコンビニに、そんな結構な猫アイテムが置いてあるのか――。

 置いてある。俺が置いた。


 たまに店に顔を出して余計な口を挟む本部のウスラバカや、気の弱いフランチャイズ店長は、マニュアルにない品揃えに首を傾げていたが、猫だって人だって、夜中など、腹にもたれない軽いものが欲しくなることはままある。

 猫自身は買い物に出られなくても、飼い主を使いに出すのは簡単だ。猫は人間より偉いからである。

 現に、スープもミルクも固形食に劣らぬ回転率だったのだから間違いない。


 俺は膨らんだ猫包みを、舗道脇の植えこみの奥に隠した。抱えてダッシュしたりしたら、かえって中身が弱りそうな気がしたのである。そこならカラスや犬は近づけない。トリップ状態の早朝ランナーに、ねられる心配もない。


「待ってろ、にゃん!」

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