4 猫、化ける


 自動ドアをこじ開けるようにして店に飛びこんだ上半身裸の俺に、痩せこけた店長は、虚ろな笑顔を向けて言った。

「いらっしゃいま……おお、ちょうど良かった」

 その声は、笑顔以上に虚ろだった。

「ちょっと午後まで入ってくれないか」


 俺が半年も前に辞めたことを、忘れてしまっている。

 今どき流行らないヒッピーじみた蓬髪ほうはつは、なかば白髪と化し、アラフォーにして歩くしかばねさながらだ。


 ことほどさように、昨今の終日営業小売店舗はブラックなのである。従業員を廃人にする度胸のない店長は、自らが廃人になる。美意識のためなら、あえて廃人化も恐れぬ俺のような逸材を、あれから見つけられなかったのだろう。


「すみません、話はあとで」

 俺は籠を持って雑貨コーナーに走った。

 案の定、品揃えは変わっていなかった。いっぺん定番に設定しておけば、売れたぶんだけ在庫システムが自動発注する。歩くしかばねはシステムに逆らわない。


 適当な紙皿なども籠に入れ、レジに運ぶ。

「これください」

 店長は、十八世紀の自動人形オートマタのようにバーコードリーダーを動かしながら、

「……午後からでもいいんだが」

「考えときます」


 店長の虚ろな瞳に浮かんだ微かな希望の光――はかない生のなごりを俺はあえて振り切り、スマホ精算してきびすを返した。


 この店長に恨みはない。

 例の誘拐騒動で店がこうむった大迷惑を、忘れてくれるほどの大雑把おおざっぱな性格もありがたい。

 しかし彼は、すでに過労死に値する幸福な人生を送っている。

 まだ強気だった青年時代、バックパッカーとして世界を放浪中に、某国で未成年の少女を妊娠させ、現地の法律によって強制結婚、妻子を連れて帰国した後も年子をふたり作っている。

 最初の出産時、奥さんは十四歳だったという。


 ときとして、人は愛のために死ぬべきである。

 たとえその愛が、今は離婚後の海外送金に化けているとしても。


     *


「待たせたにゃん!」


 疑似猫語でウケを狙ったわけではない。途中に読点を入れるのがもどかしいほど焦っていたのである。往復の疾走で、息が切れてしまったためでもある。


 俺は植えこみの前から、例の猫包みを透き見して無事を確かめ、コンビニ物件を、そそくさと舗道に広げた。

 とりあえず紙皿に猫ミルクを注ぎ、三つん這いになって、茂みに潜りこむ。

「ほーら、ご飯だにゃん」


 しかし、茂みの奥の地べたには、俺のジャージとTシャツが、くしゃくしゃと丸まっているだけだった。

 肝腎の中身が消えている。

「にゃん!」

 俺は紙皿を放り出し、四つん這いになって辺りを探った。


 まさかカラスや散歩中の駄犬に――いや、残された衣類に血痕はない。

 しかしこの世には、狂信的野良猫駆除主義者という、無差別テロリスト同然のならず者も多い。奴らは生物界の最下層に位置しながら、上層の俺を差し置いて、さらに上層の猫を保健所に拉致したりする。


 いやいや、過度の悲観はよろしくない。

 あのジャージは、俺が着ていたからこそ俺にとっての『ジャージ』であっただけで、客観的にはただのくっせーボロ布でしかないから、いかに零落れいらくした身とはいえ元来貴族に他ならぬ猫様の、お気に召さなかっただけかもしんない。


 枝々で小傷を負いながら、這い回ることしばし――。

 俺の後ろ頭に、真上から声がかかった。

「な~~ご」

「……にゃん?」

 それにしては、記憶にある声よりも妙にドスが効いている。

 デジタル音源再生ソフトで、速度と周波数と音程をそれぞれ半分に落としたような「な~~ご」である。


 つまり、虎やライオンではなく、あくまでにゃん。

 しかし音源の体格は、推定、一般のにゃんの数倍増し――。


 気圧けおされて、地べたを向いたままの俺の目前に、ずん、と前足が下りてきた。

 とってもかわゆい猫の足、ただしサイズは俺のてのひらよりでかい。


「えと、あの……」

 恐る恐る顔を上げると、案の定、あの噂話の第二弾――体長2メートルに及ぶ人面の猫が、雀を狙う飢えた野良猫のように、瞳を光らせていた。

「うなな~~ご」


 なんだ、人面猫なんて言うから、てっきりグロな化け猫かと思ったら、これはこれでちゃんと高貴じゃないか。

 確かに顔一面ほわほわの柔毛に覆われて髭も生えてるけど、目鼻立ちは美猫と美女のいいとこどり、いやむしろこの造作だと、三毛猫っぽい美少女――。


「……怖くない」

 俺は全身全霊をもって現実逃避していた。

 それはそうだろう。

 猫好きであればあるほど、あのちっぽけな爪や牙がどんだけ狩猟向きのシロモノか、おのれの流血をもって熟知している。それが数倍に膨張中なのだ。

 あまつさえ爛々らんらんと光る瞳の色が、緑から黄色に変化している。信号のように判りやすい。


 三毛猫っぽい美少女にしては、ずいぶんはしたなく大口を開けたその下あご、ずいぶんトンがった牙の間から、獲物を咀嚼そしゃく嚥下えんげするための生暖かい唾液が、ぽとりと俺の鼻の頭に垂れた。


 そして――がっぷし!!

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