5 萌えよ三毛娘
視界を覆った暗黒の中、濡れてもざらざらの猫舌を顔一面に感覚しながら、俺は自分に言い聞かせ続けた。
――恐くない恐くない。これは単なる甘噛みだ。その証拠に、俺の後ろ頭にも喉笛にも、牙が突き刺さってこない。
そうそう、甘噛み甘噛み。
はぐはぐぶんぶんと、激しく首を揺さぶられることしばし、
「うなあ」
不機嫌そうな唸り声とともに、視界の夜が明けた。
新しい朝がきた。希望の朝だ。
俺は人面猫の唾液でべとべとになった顔に、風の谷の笑顔を浮かべて言った。
「……ほらね、恐くない」
「ねっ、おびえていただけなんだよね」
キツネリス、もとい巨大人面猫は、じりじりと後ずさりしながら、俺の清らかで優しい心をようやく感じとってくれた――らしい気配は
「ぐなおう!」
猫は犬より馬鹿だなどと言う俗説があるが、それはまったくの
その証拠に、今度はちゃんと獲物の首筋を狙っている。
幻想や虚妄もまた現実に浮かぶバブルに過ぎない――そう悟りながら、俺は巨大猫のイキオイをまともに受けて舗道を飛び越し、堀割の水に背中から倒れこんだ。
どでかい猫は、どでかいぶんだけモフモフだった。
*
喉笛を食いちぎられて即死したにしては、やけに冷たくて苦しい。
ばっくり裂けた傷口から、堀割の水が出入りする感触もない。
「がばげべごぼ」
俺は肺に流れこもうとする水を懸命に排出しながら、石垣もどきの護岸ブロックにすがりついた。
「げへごほ、がは」
見た目に浄化されていても、都会の流水はしこたま生臭かった。
俺は堀割を振り返って、モフモフの安否を探った。
たいがいの猫は、水に放りこむと溺れ死ぬ。
「どこだにゃん!」
ちょっと先の水面に、盛大な泡が立っていた。
「そこかにゃん!」
俺は泡を食って手を差し伸べた。
さっさと逃げろよおまえはアホか、などとツッコむ向きもあろうが、猫は俺より偉いのだからしかたがない。
そのとき、
泡立つ堀割の水面に、黒い影が浮かび上がった。
どでかい猫の影ではない。
あくまで小柄な人影である。
対岸の石垣もどきと、墓石群のような高層建築を背に、人影はゆっくりと浮上を続け、やがて水面に
それから、翼を広げるようにふわりと両腕を開き、左右の手それぞれに
「――あなたがこの川に落としたのは、この[ニンフェット 12歳の神話]ですか? それとも、この[12歳の神話 デラックス版]ですか?」
影自体は輪郭のみに逆光を宿した漆黒だが、その声は
――両方とも俺が落としました!!
そう叫びたかった。
神々しく輝くそれらの大判書籍は、まだ児●法の適用が甘い時代に、俺が神保町や池袋や新宿やアキバの裏通りを数年かけて漁りまくっても、ついに入手できなかった最古の聖典である。
もっとも表紙だけなら、当時俺が師匠と呼んでいたぶよんとしてしまりのないアキバ系老人が住む四畳半一間の安アパートで、押し入れの奥から大事そうに取り出した真空パックの両面を見せられたことがある。
しかし、万金を積むから開封してくれと俺が懇願しても、老人は「いや、この前世紀が
ちなみにそれらを含めて、老人が真空保存していた大いなる昭和遺産の山は、近年、嫉妬に狂った他のハンパなおたく野郎に密告され、愚直な官憲の手によって、ことごとく押収されてしまった。
以後、誰ひとり老人の姿を見た者はない。
風の噂では、書類送検を待たずに、自ら富士の樹海に旅立ったと聞く。
「――あなたが落としたのは、どちらですか?」
再度、若々しいなりに
「両ほ――」
叫びかける俺の中の黒い俺に、俺の中の白い俺が、右フックを叩きこんだ。
〔馬鹿者! 発作的欲望に身を任せるな! マジに書類送検くらう気か!〕
黒い俺も、黒い血の涙を流しながら、ぷるぷると自制した。
〔そう、口では多様性を
おりしも、ビルの谷間の
その移ろう光の中、両の翼に古代の夢を抱えた黒い影は、やがて
……いや違う。
近頃のアキバに
あの噂話の第三弾――猫耳の生えた黒ニーソのゴスロリ娘である。
黒を基調にしたゴシック・ロリータ衣装の、白いフリルに縁取られた襟元の上には、柔らかそうな三毛色のウェーブヘア、その左右でミルキーピンクの内側を覗かせている可憐な猫耳、そして予想よりも遙かに幼い顔があった。
ぶっちゃけ、(一)女子小学生(二)女子中学生(三)猫、それら俺より上層の生物すべてを融合した『萌え』が、虹色のオーラを
「――さあ、どちらですか?」
「…………」
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