6 今日からあなたの私が御主人様です!


 おのれの真実を貫くことに、逡巡が無かったと言えば嘘になる。


 なんとなれば、三毛娘がたたえる浮き世離れした微笑の奥に、なんじゃやら「にんまし」っぽいよこしまな成分が、しこたま含まれているような気がするのだ。


 改めて三毛娘の顔を凝視すると、瞳の輝きが、今は明らかに赤っぽい。

 どう見ても赤信号だ。


 白い俺が言った。

〔止まれ〕

 黒い俺が言った。

〔やめとけ〕

 白黒いっしょに、こう言った。

〔なんかアヤしい〕


 しかし俺は、俺の中の黒い俺と白い俺よりも正直だった。

「――どっちでもない」

 俺はきっぱりと言った。

「俺が落としたのは君だ」


 三毛娘は言った。

「ぴんぽ~~~ん!」


 いきなり声が軽くなっていた。

 まるで『このゲームに登場する人物は全員18歳以上です』と銘打たれたエロゲーに登場する、小中学生にしか見えない最低頭身のキャラを担当する舌足らずな声優の声だ。


 三毛娘の両手を離れた写真集が、古新聞に化けて、はらはらと堀割の水に散った。


「おめでとうございます!」

 三毛娘は水面を蹴ってしなやかな弧を描き、そのまんま俺の首っ玉にしがみついてきた。

「おじさんみたいに優しくて大らかで、正直な変質者は見たことがありません! 今日からあなたの私が御主人様です!」


 一部ずいぶんな仕分けをされていることや、後半の文法が微妙に乱れていることに、俺はちっとも気づけなかった。


 すりすりすり――。

 はぐはぐはぐ――。


 こーゆーイキモノになつかれて、あまつさえ耳たぶを甘噛みされながら正気を保てるおたくがいるとしたら、そのおたくは、すでに死んだおたくである。

 正気を失っているくらいだから、俺はまだ死んでいないおたくである。死んでいないからこそ、ああそっちの耳たぶばかりはぐはぐされると、いかに甘噛みとはいえ牙がチクチクして流血してるみたいだから、そろそろこっちの耳たぶをはぐはぐキボンヌ――などと、古おた特有の死語をもって切望しながら、ふるふると身悶えたりもする。

 そして正気を失ったからこそ、かくもアブナい非実在キャラによる爪先立ちの愛咬を実在レベルで幻覚できるとすれば、この発狂をもたらしてくれた長期の引きこもり、そしてその要因となった隣町のA子ちゃん(仮名)、のみならず陰険なマスゴミどもや薄情な御町内の皆様さえも、実は俺という憐れな子羊に、天がもたらした大いなる福音なのかもしれない。


 ともあれ俺はすでに発狂している――これだけは厳然たる事実である。

 しかし発狂したにせよ、まだ死んでいない以上、俺はなお常人を装って一般社会に有り続けたい。

 ここで下手へたを打ったら、留置場とはタイプ違いのおりに入れられてしまう。


 俺は今さらながら、周辺に人目がないのを慎重に確認した。

 幸いにして、見渡す限りの舗道に、俺以外の人影はない。

 建物のベランダも大丈夫そうだ。

 それでも脇道あたりから、久しぶりの太陽に誘われた近隣の住人が、ひょっこり散歩に出てこないとも限らない。


 俺は〔いや、私ちょっとひとりで散歩中に、ちょっとひとりで休んでるだけなんです。ひとりですよ、あくまで私〕と全身で擬態しつつ、独り言のように小声で言った。

「……なあ、おまえ」


 こーゆーありがたい幻覚を『おまえ』呼ばわりするのはいささか気が引けたが、名前を知らないのだからしかたがない。お互いのサイズ差を思えば、『あなた』や『きみ』では違和感がありすぎる。


 三毛娘は、俺の首っ玉から腕を解き、まんまる目玉で見上げてきた。

「あたし、今日からオマエなの?」


 爪先立ちをやめてしまうと、その頭は俺の肩にも届かない。まさに(JS+JK)÷2=の立ち位置である。

 そんな望ましい眼下から、萌えるようなルビー色の瞳でおのれの濁り目を直撃され、俺は思わず言葉につまった。

「いや、その……」


 三毛娘は、とくに不興を覚えた様子もなく、

「オマエでもアナタでも、ニャンでもニャオでもなんでもいいよ。ちゃんと召使いになってくれたら」


 呼称に対する認識の甘さは理解できたが、後の言葉が腑に落ちない。

「……おまえが俺に仕えるんじゃないのか?」

「なんでしょ、それ」

「さっき自分で言ったぞ。今日からあなたが私の御主人様です、とか」

「ちがうよ。あなたの私が御主人様だよ」

 三毛娘は胸を張って断言したのち、

「あ、ごめん。ちょっとバッテン」

 てへ、などとわざとらしく小首を傾げ、

「じゃあ、もっぺん。――えーと、『今日から私があなたの御主人様です!』」


「…………」

「今のがマル!」

「……そうか、それが丸なのか」

「うん、ハナマル!」

「……花丸なのか」

「うん!」


 なるほど、そうとあってはしかたがない――。

 俺はあっさり腹を据えた。

 悩むまでもない。それが当然なのである。

 俺の脳味噌から涌いた金・銀・銅のトリプルメダリストが、万年四位の犬や俺に、仕えてくれるはずはない。


「……それでは、御主人様」

 俺はこの種の主人に仕える下僕として、正しかるべき忠義の念を表明することにした。

「こちょこちょこちょこちょ」

 これくらい人慣れした御主人様なら、そのあったかくてやーらかい顎の下の皮膚を通して、下僕が指先にこめた全幅の忠義心を、なんの疑問もなく受け入れてくれるはずだ。


 案の定、御主人様は糸のように目を細め、

「ごろごろごろごろ」


 喉の鳴る音に合わせて、猫耳頭が微かに揺れたりする。

 さらに見下ろせば、ショートスカートの背後で、三毛色の尻尾が二本、もとい二叉が一本、こっちからそっちへ、羽箒はねぼうきのようにゆらゆらと行き来している。


 ――うん、完璧。


 これで主従関係が確定したからには、部屋に連れ帰ろうが風呂場で洗ってやろうが、すべては忠義の為せるわざである。

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