3 ラブラブ交番デート


 交番の壁の時計は、もう十時を回っている。


 受付の奥の机で番茶を啜りながら、A子ちゃん(仮名)が言った。

假名かりな暎子えいこです」


 並んで番茶を啜りながら、まんまやないけ、と俺は言わず、

「どういう字を書くの?」

「えーと、ちょっと説明しにくいんで――」

 A子ちゃんはパイプ椅子の背に掛けていたランドセルから一冊の学習帳を取り出し、裏の名前欄を示した。


 なるほど、これまで『A子ちゃん(仮名)』だとばかり思っていたのは、粗忽そこつな俺の勘違いで、実はとっくの昔に、どこかで実名を耳にしていたのかもしれない。


「これから登校したんじゃ、もう二時間目の途中くらいかな」

「いいんです。どうせ学校の授業なんて、塾より何週も遅れてるし」


 おお、と俺は目を見張った。

 俺なんか、インフルエンザで小学校を五日休んだだけで、それっきり全教科、卒業するまで落ちこぼれ続けた。

 あらためて見れば、暎子ちゃんの顔立ちにも、まるまっこい髪型に似合わぬ知性の光が感じられる。


 無論、それは子供なりの狭い知性であり、世間知とは別物なのだろうが、俺はこーゆー『いいんちょ』タイプの女児にも、しこたま惹かれるたちなのだ。

 とくに、ふだんクールないいんちょが、ある朝に限って、なぜか泣きはらしたあとのはれぼったいまぶたなどをしていたら、無条件で生涯の忠誠を誓い、命を張ってやりたくなる。


          *


 ところで現在、なんで俺と暎子ちゃんが、交番の机で水入らずのデート状態になっているのか――。


 それは、ここに配属されている二人のおまわりが、奥の一室で、タマの取り調べにかかりきりだからである。

「うにゃにゃにゃにゃあ!」

 明らかに苛烈な爪出し猫パンチを伴ったタマの怒声も、扉越しに聞こえてくる。


 暎子ちゃんが、眉をひそめて言った。

「……ほんとに猫なんですね。近所の野良猫が、ときどきあんな声でケンカしてます」

「うん、化け猫なんだ」

 俺はしみじみと番茶を味わいながら言った。


 奥の様子は気になるが、公僕の職務に、一般市民が四の五の口を挟んでもしかたがない。

 まあ最悪、ふたり揃って巨大人面猫にほふられたとしても、警官ならば立派な殉職である。

 あの若いおまわり――椎名巡査は独身と聞いているから、それなりの弔慰金が、親御さんに渡るだろう。

 中年の上司――田所巡査長は妻子持ちらしいから、けっこうな遺族年金が、残された奥さんに支給されるはずだ。


 やがて奥のドアが開き、その上司、田所巡査長が悄然と現れた。

 顔面の皮膚がささらのごとく切り刻まれ、顎から胸まで血まみれになっている。

 それでも頸動脈が無傷なのを見ると、タマの変身巨大化は、回避されたらしい。


「荒川君……」

 田所巡査長は、交番の床にぽたぽたと血を滴らせながら言った。

「……アレは、本当に堀割で拾ったのか?」

「はい」

「……実はショッカーの秘密基地から連れてきた、とか」


 前言撤回、やっぱりタマは変身したらしい。

「俺は確かにおたくですが、そこまでは、ちょっと」

「……そうか」

「椎名さんは無事ですか?」

「弁当の身欠きにしんを献上して、なんとか懐柔してる。しかし、いつまでつことやら」

「チャオちゅ~る、とくにカツオだしボーノスープが効きますよ。このあたりでは、俺がいたコンビニにしか置いてありませんが」


 そう、チャオちゅ~るシリーズなら、なんでもいいわけではない。汎用性に差があるのだ。猫も個体によって、ずいぶん食性が違う。

 野良猫懐柔歴の長い俺は、そのスープが、マタタビよりも強力であることを知っていた。


「ありますよ、カツオだしボーノ」

 暎子ちゃんが言って、ランドセルから、例の外袋をつまみ出した。

「どうぞ、使ってください」

 まさに俺が品揃えしたアイテムである。


「ありがたい! あとで必ず返すから!」

 田所巡査長は、暎子ちゃんを拝むようにして袋を受けとり、勇躍、奥の部屋に戻っていった。


 ほーら猫ちゃん、おいしいペロペロちゃんだよう――そんな猫なで声が、扉の奥から、何度か聞こえてきた。

 どうやら修羅場が再開しそうな気配はない。


 俺は感心して、暎子ちゃんに訊ねた。

「アレ、いつも持ってるの?」

 暎子ちゃんはそれに答えず、なぜかスマホをつるつるし、呼び出した画像を俺に向けて言った。

「こーゆーのが趣味なんです」


 液晶画面では、あの荒川河川敷の凶悪野良ボスが、みごとに腹を上にして、大の字に寝そべっていた。

 別人、いや別猫のようにくつろいで目を細め、虎縞ともぶちともつかぬ腹一面には、舶来菓子を彩る粉砂糖のように、白いナズナの細花が散りばめられている。


「……おみごと」

「今年の春に撮りました」

「俺なんか、あいつを陥落おとすのに一年かかった」

 暎子ちゃんは、さらにスマホをつるつるすること数秒、

「あと、こんなのも」


 今度の画像は、一見、平凡な風景写真だった。

 大都会にしてはあし原の多い長閑のどかな河川敷、青空を映してきらめく水面みなも、その向こうに延々と続く首都高の高架。さらに彼方には、異物のようにトンガっているスカイツリー。

 東京の下町写真として、お膳立ては整っているが、画面全体が傾いているし、構図もてんでんばらばらである。いわゆる素人写真にしか見えない。


 でもやっぱり、ここは褒めてあげたほうがいいかな――などと日和ひよっている俺に、暎子ちゃんは悪戯っぽく頬笑んで、写真の片隅に写りこんだ土手の上あたりを、つるりとピンチアウトしてみせた。

「去年の秋に撮りました」


「……あ」

 俺は言葉につまってしまった。


 めいっぱい拡大された、荒いジェイペグ画像の中央で、ぶよんとしてしまりのない青年だかおっさんだかが、同じボス野良に、猫じゃ猫じゃを踊らせている。

 引きこもる前の、万年非正規労働者らしからぬシヤワセそうな俺の顔は、混じりっ気なしのウスラバカに見えた。


「……ごめんなさい」

 暎子ちゃんが、消え入りそうにつぶやいた。

 見れば暎子ちゃんは、もう笑っておらず、なぜかまた泣き出しそうな気配である。

 つまり彼女は、そんな開放的なウスラバカを、自分の嘘で閉塞的なウスラバカにしてしまったことに、ずっと心を痛めてくれていたのだろう。

 あのボス野良につきあってくれたのも、姿を見せなくなったウスラバカの代理、そんな気持ちがあったのかもしれない。


「いやいやいやいや」

 俺はぶんぶんとかぶりを振った。

 やはり暎子ちゃんは、俺より貴いのである。

 まだ俺の半分も生きていないのに、愛の本質が主体ではなく客体にあることを知っている。

 ここ半年、全ての現実から目をそらし、あの野良ボスのことなど一度も思い出さなかった俺のほうが、イキモノとして、なんぼ未熟か知れたものではない。


「ありがとう」

 俺は、解き放たれたウスラバカの笑顔で言った。

「あの野良、ほっとくとすぐ荒れるんだ」


「……もう大丈夫です」

 幸い暎子ちゃんは、目頭をちょっと潤ませただけで、きわめて慎ましやかながら、子供らしい陰りのない笑顔を浮かべてくれた。

「地域猫ボランティアの人たちに、いつも撫でられてますから」

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