2 惜しみなく愛はシバく
そうだった。こいつはそーゆー猫なのだ。
ああ、飯より風呂を先にすればよかった――。
俺がほとんど絶望しかけたとき、玄関口の方から、慌ただしく戸を叩く音が響いた。
「荒川さん! 荒川さん!」
なんじゃやら聞き覚えのある男の声も聞こえる。
俺はここを
「助けてくれ! 殺される!」
世間様参入の予感に、かえって逆上したお袋は、
「観念しなさい!」
ついに、みしずぼ、と床板から包丁を引き抜き、
「母さんもすぐに逝きます!」
背中の上で、お袋が、ひゅう、と息を吸い、文化包丁を振り上げる気配がした。
俺も、ひゅう、と息を呑んだ。
「殺してはいけません!」
例の男声が、間近で響いた。
「刃物を放しなさい、お母さん!」
台所の戸口に、近所の交番のお
黒光りする拳銃を、びしっ、とこちらに向けて、
「何があったか解りませんが、人を殺してはいけません。まして実の息子さんを殺してはいけない。どんな事情があったとしても、後には
異議なし!
「人を殺していいのは刑務官だけです」
……ちょっと異議あるけど、異議なし。
まあ、この若いお
お袋や親父とは配属以来の顔なじみだし、俺も半年前の騒動で、少なからず顔を合わている。
「ふう……」
お袋は肩を落とし、包丁を床に放り出した。
「……お
お
「懲役にでも……死刑にでも」
いや、司直丸投げも困る。本来そーゆー事態ではない。
でもまあ、そこんとこは、
ひとまず死線を脱した俺は、お袋の下からずりずりと這いだした。
お
そのとき、
「逃がしちゃだめ!」
お
「そのおじさんは変態です! 少女の敵です! すぐに撃ち殺してください!」
ア●ネス・●ャンばりの金切り声に、俺は仰天してしまった。
お巡りもお袋も、反応に窮している。
今現在の俺が変態であるかどうかはともかく、少なくともA子ちゃん(仮名)がらみの一件において、俺が純粋な被害者だったことは、関係者全員が納得しているはずだ。
お
「だから、とりあえず交番に、ね?」
A子ちゃん(仮名)は一歩も引かず、
「さっき言ったでしょ! そのヘンな子にヘンなことしてた! 現行犯だよ! おまけに家まで連れこんで!」
おお、とゆーことは、やっぱりタマは実在キャラだったのだ。誰にでも見えるのだ。ならばA子ちゃん(仮名)が学校ではなく交番に駆けこみ、お
お
「えーと、お嬢ちゃん」
いわゆる猫なで声だが、あくまで一般の女児に対する猫なで声である。
タマのリアルな猫耳や二叉尻尾も、コスプレの一部くらいに思っているのだろう。
「お嬢ちゃんは、この太郎君に、その、何かヘンなことされたかな?」
タマは、のほほんと答えた。
「ううん。美味しいものもらった」
「でも、えーとその、その後でスカートめくられた、とか」
「ううん。あたしがめくった」
「じゃあ、なんか、騙されてここに連れてこられた、とか」
「ううん。あたしが案内させた」
相手が児童であるかぎり、それらの行為も今どきは大人側の犯罪になってしまうが、まあ初犯ならせいぜい書類送検止まりである。俺のほうから「幻覚だと思った」などと非常識な弁解を――いや弁解ではなく事実なのだが、とにかく俺が下手を打たないかぎり、事態はこれ以上紛糾しない。
俺はタマを見習って、のほほんと日和ることにした。
それにしても、タマが正真正銘の実在キャラだとしたら、世の官憲は、この事態にどう対処するのだろう。なにせ猫耳も尻尾もモノホンの、いわゆるUMAなのである。戸籍や住民登録だって、佐賀にもどこにも存在しないはずだ。おまけにときとして化けたりもする。
これは今世紀の文明社会に、コペルニクス的転回をもたらす大事件かもしれんなあ――などと、ほとんど他人事モードで日和っている俺に、
「……許せない!」
A子ちゃん(仮名)が叫び、あろうことかあるまいことか、お
もとより拳銃は、お巡りのベルトにランヤードで繋がっているが、カールコードと似た仕組みなので、子供の力でもびよんびよん伸びる。
「うわこらうわ!」
とっちらかって奪い返そうとするお巡りを、A子ちゃん(仮名)は刑事アクションなみの迫力でびよんびよんと威嚇しつつ、
「……信じてたのに……荒川さんだけは信じてたのに……」
つぶやきながら、びし、と銃口を俺に向け、
「この浮気者!!」
なんなんだそりゃ、いったいどーなってんだ――。
真っ白いウニとなった俺の脳味噌めがけ、A子ちゃん(仮名)は、ぐい、とトリガーを引いた。
俺はもう覚悟も絶望もせず、ただA子ちゃん(仮名)の理解不能な言葉を、なぜか無性にありがたく脳内で
えーと、ここで念のため。
別に命が惜しくないから余裕こいていたわけではない。
このお
案の定トリガーを引ききれず、くいくいと焦りまくるA子ちゃん(仮名)の手から、ようやくお
「ほんまにもうエラいこっちゃコレモンやがな」
実は関西出身らしい。
A子ちゃん(仮名)が、わっ、と泣き出した。
そのまま、わあわあ泣き続けている。
俺はA子ちゃん(仮名)のわななく肩に、そっと手を置いて言った。
「……信じてもらっていいぞ。俺は絶対に君を裏切らない」
なんだかよくわからない思いこみや、偶発的な勘違いで殺されかけたにせよ、女児の涙を看過できる俺ではない。女子小学生は無条件で俺より貴いからである。
女子小学生には、いや女子小学生にも女子中学生にも、そしてたぶん猫にも、それぞれの重い荷物がある。
何かと思いつめそうなこの子が、半年前にプチ家出を決行したのだって、誰にも言えない荷物が重すぎたからに違いない。
だから俺はあのとき、いっさいこの子を責めなかったのである。
もっとも相手が男児や大人だったら、陰に日向に、死ぬまでネチネチいじり続けるだろうが――。
なんだかよくわからないまま、もっともらしく自己完結している俺のジャージを、タマが横からつんつんと引っぱった。
「
そう、このタマにだって、きっと重い荷物が――まあ、昔はあったはずだ。
今はないかもしれないが。
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