第2章 愛と死を煮つめて

1 死を呼ぶ朝御飯


 前述したように、俺の家は、バブリーな高級住宅街の片隅に残された戦後復興期遺産である。

 直下型が来たらすぐさま倒壊炎上し、周囲に残った真新しい耐震耐火建造物の狭間はざま、そのちっぽけな焼け跡にだけ三丁目の夕日が沈む。


「ほう、今日からここが私の家ですか」

 タマは玄関口を眺めるなり、もぞもぞと自分から俺の肩を下りた。なにしろのきが低い。客を肩車したまま中に案内したら、客の腰骨が折れる。赤ん坊だと首がもげる。

「……とりあえずマル!」


 同じ木造でも大名屋敷級と思われる龍造寺家や、横浜のハイカラ異人館に比べれば犬小屋に等しいであろう弊屋へいおくに、タマは意外なほど動じなかった。

 まあ元が猫ならば、どれほど広壮なお屋敷であれ、わざわざ物陰に潜りこんで丸くなるのを好むはずである。


「黙って俺についてこい」

「らじゃー」


 上がってすぐ横にある台所を覗くと、安食堂のようなちっぽけなテーブルで、お袋がぽつねんとお茶をすすっていた。親父はすでに出かけたのだろう。お袋のパートは九時からだから、まだ少々の間がある。

 俺は、ちょと待て、と背後のタマを制し、ひとりで台所に入った。

「ただいま」


 半年ぶりに俺からその言葉を聞いたお袋は、なかなか腫れの引かないできものからやっとうみが出た、そんな微妙な笑顔で言った。

「おかえり」


 テーブルの上には、伏せられた空の飯茶碗と味噌汁椀、そして小ぶりの蠅帳はいちょうを被せた朝のおかず一式が、人待ち顔で並んでいた。

 お袋も親父も、根っからの下町育ちなのである。もちろん世間並みに電気炊飯器や電子レンジも使うが、今どき折りたたみ式の蠅帳がある家は珍しい。


「あとで食う」

 俺は蠅帳を上げ、皿からあじの干物をつまみ上げた。

「これだけ先にもらう」

 親父の好みで、特に薄塩の干物を近所の魚屋に調達させているから、猫に食わせても問題ないはずだ。


 そのままあっさりきびすを返しては、なんだかお袋に申し訳ない気がしたので、

「あと……俺、また仕事探すから」


 幻覚のくせに、餌だけはしっかり消費する御主人様を家に連れこむ以上、今後は自前で向き向きの餌を調達しなければならない。


 お袋の顔に、小学校の入学式で保護者席から俺に向けていたような、混じりけのない微笑が浮かんだ。


 俺がついうるうるしそうになっていると、

「お魚?」

 いきなりタマが横から顔を出した。

「おう、アジの干物! 久しぶり!」

 それでも苦労猫らしく、しっかりお袋に頭を下げて、

「これはこれは、太郎のお母様でいらっしゃいますか。わたくし、タマと申します。今後とも、なにとぞよろしくお願いいたします。わたくし、けして贅沢ぜいたくは申しません。でもクサヤの干物だけは、ご勘弁くださいね」


 いや、どうせ見えないし聞こえないから――。

 俺が思わず苦笑していると、お袋の手から湯飲み茶碗が抜け落ち、ごとばしゃ、とテーブルに転がった。

「………………」

 なぜかお袋は、さっきのA子ちゃん(仮名)の倍以上、両目を見開いていた。

「………………」


 まさか――見えてるのか?

 しかし、いかに血を分けた親子とはいえ、幻覚まで同調するはずは――。


 お袋は目をむいたままゆらりと立ち上がり、生きるしかばねのような足取りで、こちらに歩み寄ってきた。

 あわてふためく俺をやりすごし、

「……ごめんなさいね、お嬢ちゃん」

 そうつぶやいて、タマの両肩にそっと手を添え、

「……あなたは、あなたのおうちにお帰りなさいな」

 今は優しく細まったお袋の目頭から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。

 タマはきょとんとして、ふるふるとかぶりを振っている。


 次の瞬間――。

 お袋は俺を振り返り、眼窩がんかから目玉を半分以上も露出させて、鬼のように咆哮ほうこうした。

「――おまえって子は!!」


 俺は、わしっ、と頭髪を鷲掴わしづかまれ、そのまま台所の流しまで、ぐいぐいと引きずられた。

「あだだだだだだ!」


 お袋は、片手で俺の後ろ頭を流しに押しつけ、横の包丁立てから手近な一本を引き抜くと、

「死んでこの子にお詫びしなさい!!」

 そう叫んで、その柳刃やなぎばの鋭い切っ先を、真正面から力いっぱい俺の眉間みけんに振り下ろした。


「どわ!」

 俺は反射的にお袋の手首を掴んだ。

 ズブリの直前で、からくも刃先が止まる。

「待てお袋! 俺の話を聞け!」

「問答無用!」

 お袋はぎりぎりと手首を震わせながら、うなるように言った。

「十年前に殺せばよかった……」

 さいの河原の奪衣婆だつえばもチビりそうな形相ぎょうそうで、

「よもや生身の子には手を出すまいと……信じた私が馬鹿だった!」


 十年前――それは俺が、最初のドールにランドセルを背負しょわせた頃である。


「お願いだから待ってくれ!」

 眼前に迫った切っ先の、最後の数ミリを満身の力でこらえながら、俺は言った。

「この柳刃やなぎば雲州うんしゅうの作だろう。大事な結婚記念だろう」

 伊達だてに三十年も親子をやっていたわけではない。お袋の弱点は知りつくしている。

「刃こぼれしたら、ぎだけで何万だぞ」


 瞬時、お袋がためらった隙を突き、俺はお袋を払いのけ、台所の床をワニ化したカバのように這って逃げた。


 お袋は間髪を入れず、ずん、と俺の背中にまたがり、

「おまえを殺して私も死ぬ!」


 俺はお袋の左利きの軌跡を察し、思いきり左っ側に首をひん曲げた。

 右耳すれすれの床に、無印良品の文化包丁が、どす、と突き立った。

 老朽化した床板ゆえ、の根元まで刺し貫いてしまったのが、今はかえってありがたい。


 うんうん唸りながら包丁を引き抜こうとしているお袋の下で、俺は懸命に脱出を図った。

 しかし、半年も引きこもりっぱなしの筋力では、長年パートで鍛えた中年主婦の底力に抗いきれない。一見奪衣婆っぽい体形のお袋だが、骨力と胆力は遙かに俺を凌ぐ。


 包丁がぎしぎしと刃元を現しはじめ、俺の耳たぶをちりちりとかすった。

「うわ死ぬ」


 焦って刃元に目をやれば、そのすぐ先にタマがしゃがみこみ、あじの干物をはぐはぐ囓りながら、骨肉の死闘をのほほんと観戦している。


「……何をしている」

「いや、次は太郎の活け作りが出るのかなあ、とか」

「召使いを食うのか、おまえは」

「うん、ときどき」

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