10 A子ちゃん(仮名)とドップラー効果


 俺は絶叫し、がっくりと地べたに膝をついた。

 頭の中で、あの樹海に消えたアキバ系老師の声が、俺の魂を怒濤どとうのように翻弄ほんろうしていた。


「前世紀がのこした唯心論的な『みそぎ』の蕾たちは、断じて今世紀の唯物論的な『けがれ』に晒してはならない」――。


 ならば今、思わずよこしまな方向で激しくときめいたりしてしまった俺自身もまた、大らかな昭和の祭りを、唾棄すべき平成の不寛容でおとしめようとする『けがれ』の一員にすぎないのか――。


「――違う!」

 俺は両の拳で地べたを乱打しながら慟哭どうこくした。

「違う! 違うんだ!!」


 すると、頭上から『みそぎ』の声が聞こえた。

「あーもう、このおじさん、なんかめんどくさい」

 でも使えそうな召使い、他に見つかんなかったしなあ――そんなぼやき声ののち、

「がっぷし!」


 いきなり視界を覆った暗黒の中、覚えのある顔面べろべろ感と首ぶんまわし感を再体験しながら、俺は思った。

 ああ、やっぱり俺みたいな寸足らずは、まともな発狂さえかなわず、自らが産んだ潜在意識イドの怪物に丸かじりされる定めだったのだ――。


「はぐはぐ、はぐはぐ」


 今回はやけに味見が長いが、どうですべては俺の自業自得、今さら何をも恨むまい。どうぞこのまま彼岸に引導よろ――などと、死による免罪をこいねがうことしばし、


「ぺ」


 俺の目に、ふたたび朝の光が戻った。


 一瞬、あの巨大人面猫が眼前に立ちはだかっている気がしたが、改めて目をしばたたけば、俺の前に立っているのは、あくまでゴスロリのタマだった。


「なるほど、太郎の言わんとしている意味が、だいたい見当がつきました」

 タマは厳かに言って、スカートをまくり上げた。

「はい、パンツ」


 豊かなフリフリに縁取られた、ドロワーズだかズロースだか判然としない、丈長の純白物件が、そこにあった。

「おお……」

 これこそが俺の正しい幻覚――。


 そう、ゴスロリスカートの内部にあるべきは、グンパンやブルマーではなく、ましてざーとらしい白水着でもなく、まさにこの提灯ちょうちん型物件なのである。

 かてて加えて、さっきは見受けられなかったフリフリのペティコートまで、スカートと一緒にまくり上げられているではないか。


 俺は思わず合掌していた。

「なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」

 なんだかよくわからんが、とにかく俺は此岸しがんの生を許されたのだ――。


 そのとき突然、背後から、

「ひ!」

 と甲高かんだかい声が響いた。

 悲鳴を上げようとして、上げる前に飲みこんでしまった――そんな悲鳴だった。


 うわしまった、いつのまにか、後ろに第三者が――。

 仰天して振り向くと、木立の向こうの舗道からこちらを窺って立ちすくんでいるのは、赤いランドセルのボブショート娘――忘れもしないA子ちゃん(仮名・当時小学五年生・十一歳)だった。

 いや正確にはA子ちゃん(仮名・現在推定六年生・十一歳か十二歳かまだ不明)である。

 両のこぶしを口に当て、ヤダヤダウッソーとふるふるしている姿は、まるで昭和のブリっ子のようだ。


 俺は対処に窮し、合掌ポーズのまま首だけそっちに向けて、A子ちゃん(仮名)の澄みきったまんまるお目々を、自前のニゴリ目で阿呆のように直視するしかなかった。


 とりあえず「あの」と声をかけようとした瞬間、A子ちゃん(仮名)は、たまよりも速いエイトマン、あるいは加速スイッチをONにしたサイボーグ009のごとく、びゅん、と消失した。


「うぁぁぁぁ!」

 長い悲鳴と、ランドセルのかたかた揺れる音が、超加速から生じるドップラー効果によって周波数を低めながら、彼方の推定小学校方向に遠ざかっていった。


     *


「……なんでしょ、あれ」

 パンツ丸出しのまま、タマが言った。

 俺は言葉を濁した。

「あ、いや、ちょっと……」


 思えば、俺の幻覚を、A子ちゃん(仮名)が共有できるはずはない。

 彼女が目撃したのは、あくまで忘れてしまいたい過去の遺物が、なぜか植えこみの奥の地べたにひざまずいて、泣きながら虚空を礼拝している姿なのである。

 いつもの通学路でいきなりそんなシロモノに遭遇したら、俺だって即行トンズラこく。


 ――ま、いいか。

 俺はここまでのアレコレを、脳内で強制初期化することにした。

 ――うん、今後の予定に問題なし。

「肩車していいぞ、タマ」


 タマはなんの屈託もなく、がしがしと背中によじ登ってきた。

「♪ おっさかな、おっさかな~~ ♪」

 




   第一章 【お早うございますの猫又さん】〈終〉



          〈第二章【愛と死を煮つめて】に続く〉

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