2 天下御免の道中手形


「にゃにゅにゃにゅにゃ! にゃにゅにゃにゅにゃ!」

 タマは画用紙に、肉球を連打しつづけた。


 べべべべべべべべ――。


 絵の具を跳ね散らかして色を変えたりしながら、一心不乱に肉球を振るいつづけること数分、

「……ねみゅ?」

 タマの肉球が、ふと動きを止めた。

「ねみゅう……」

 両前足を宙に掲げたまま、途方にくれたようにフリーズしている。

「ねみゅう……みゅみゅなんな、みゃみょん」


「このタマちゃん語は難しいな」

 田所巡査長が首を傾げると、椎名巡査も困惑したように、

「自分も初めて聞く気がします」

 公僕コンビは、俺に翻訳を求める視線を流したが、俺は応えられなかった。なんとなれば、俺にもニュアンスが聴き取れなかったからである。


「美学上の迷いが生じたみたいです」

 横から暎子ちゃんが翻訳してくれた。

「抽象と具象の狭間はざまで道に迷ってしまった――そんな感じなんだよね、タマ」

 タマは難しげな顔でうなずいた。

「ねみゅみゅみゅみゅう……」

 未完の作品を前に、心から苦悩しているようだ。


 俺から見れば、いちおう画用紙全体が色とりどりの猫の肉球でみっしり埋まっているから、あとは[ぷにの構造]とか[萌えの表象]とか適当にタイトルをつければ、抽象画としては立派に成立している気もする。


 暎子ちゃんは、じっくりと作品を見つめたのち、

「……お花だけじゃなく、葉っぱとかも入れてみたら?」


「みゃみょん!」

 タマは嬉々として緑色の絵の具をパレットに練りだし、こんどは肉球ではなく尻尾の先っぽを、縦横無尽に操りはじめた。

「にゃにゅにゃにゅにゃ! にゃにゅにゃにゅにゃ!」


 ちなみに、やがて完成した作品のタイトルは、[にゃんこの花園]であった。

 やはり猫や女児の内的世界は、下等な俺など窺うべくもない、神秘的なイマジネーションに充ち満ちているのである。


     *


 そうして、各宿題に着々と目処めどがつきつつあった昼下がり、ロックチャイルド氏と常磐老人と牧さんが、俺たちの集う部屋を訪れた。


 ロックチャイルド氏は、呆れたように言った。

〈……なぜ君たちは、こんな狭い所に、みっしりと詰まっているのかね?〉


 個々の客室より広いとはいえ、広間や食堂に比べれば館のほんのオマケにすぎないサンルームに、公僕コンビや富士崎さんのみならず、富士崎さん関係の武闘派一同まで、全員集合しているのである。


 富士崎さんは自由研究の下書きの手を休め、大真面目に答えた。

「主な警護対象が現在ここに揃っているからであると同時に、一朝有事の際は、ここが一番安全な場所だからです」


 他の武闘派も公僕コンビも、こくこくとうなずいた。

 彼らの視線の真ん中あたり、日当たりのいい椅子の上では、お絵描きを終えたタマが、三毛猫モードのまんま丸くなっている。

「くーくー、すやすや」

 そう。このユルみきった寝姿の主が、有事の際は、史上最強の生物兵器に変貌するのである。


 俺は常磐老人に訊ねた。

「そちらの仕事は完了ですか?」

「ああ。今後は全てが表沙汰として動くことになる。タマちゃんも近いうちに、大手を振って世間にデビューできるぞ」


 もちろんタマの正体が、表沙汰になるわけではない。荒川プロモーション所属のイロモノ・タレントとして、晴れて表舞台に立つということだ。


 常磐老人は、タマの頭を撫でながら、

「はいタマちゃん、これが君のパスポートだよ」

「にみゃ?」

 タマはむくむくと猫娘モードに変貌し、

「おお、これぞ天下御免の諸国道中手形!」

 俺たち下僕がみんな持っているのに、自分だけ作れなかったので、常々悔しがっていたのである。


「なまんだぶなまんだぶ」

 タマはかしこまってパスポートを押し頂いたのち、その内側をあらためた。


 横から覗きこんだ俺は、思わず感嘆した。

「ほう……」

 写真からサインまで、紛う方なき日本国旅券、完全無欠のパスポートである。

 ちなみにサイン部分には、出国前にタマが記入して結局は提出できなかった申請用紙の難読平仮名が、きっちり転写されている。


「『りゅうぞうじ たま』――すごいですね。どう見ても本物じゃないですか」

「そりゃ本物だからな」

「え?」

「国に帰ったら、タマちゃんの戸籍謄本だって取れるぞ。本籍は佐賀県、龍造寺高房の遠い縁続きということになる。ただし現在の住民票は(有)荒川プロモーションの社員寮、つまり君の家になっとる」


「でも、さすがに戸籍は捏造できないはずじゃ……」

「そりゃ日本の戸籍やマイナンバーを直接いじるのは、わしでも矢倍やばい君でも不可能だ。種を明かせば、ほとんどわしの力じゃない」


 常磐老人は、牧さんとロックチャイルド氏に目をやり、

「牧君紹介の歴史学者に龍造寺一族の全家系を調査してもらったら、昭和初期、海外雄飛を志して、大西洋の島国マリネラ王国に移住した遠縁の夫婦が見つかった。

 そのマリネラ王国には、ロックチャイルド財閥が莫大な投資を行っている。日本と違って、なにかとユルい小国のこと、ロックチャイルド氏が陰から手を回せば、移民一族の戸籍の中に三世の娘をひとり追加するくらい、造作もない。

 そのマリネラ生まれのタマ・リューゾージ嬢が、数年前、佐賀に里帰りして、現在はすでに日本に帰化している。そこいらの国内での帳尻は、SRIの小川嬢が、ネット経由でこっそりナニしてくれた。

 わしは国務局の役人に、ほんのちょっとニラミを利かせただけだ。多少の矛盾は内密に忖度そんたくしとけ――まあ、そんな感じでな」


「なあるほど……」

 氏素性の確かな日系人ならば、外国籍でも、日本への帰化はさほど難しくない。お役人の忖度があればなおさらだ。


「よかったな、タマ。これでおまえも、きっちり龍造寺さんちのタマだぞ」

「なまんだぶなまんだぶ――」


 二叉尻尾をふるふるしながら、パスポートをめつすがめつしていたタマは、

「ありゃ、こりは面妖な」

 ふとつぶやいて、尻尾を止めた。

「……これではまるで、アワビ猫」

 自分の写真の頭に、猫耳がないのに気がついたのである。


 牧さんが、申し訳なさそうに言った。

「そこなんだけど、残念ながら耳だけは、写真を修正するしかなかった。猫耳のままだと、どうしても通関できない国が多いんでね」

 ロックチャイルド氏も、タマの猫耳を残念そうにくりくりと撫でながら、

〈我慢しておくれ、タマちゃん。この世界には、マイノリティーに対する偏見がまだまだ残っているんだ〉

 マイノリティーである以前に、そもそも人間ではない。


「そーゆーことなら、お気遣いなく」

 タマもあっさり妥協して、

「猫としてのアイデンティティーは譲れませんが、耳や尻尾は、猫様々ですからね」


 タマの両の猫耳が、ぺこん、と折りたたまれ、三毛色のウェーブヘアの奥に、もぞもぞと収納されてゆく。

「――舶来折れ耳三毛猫又、とゆーことで」


 確かにスコティッシュフォールドの中には、ドラえもんの色違いみたいな、まんまる頭のにゃんも存在するのである。

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