10 ムーンライト・フライト


 やがて唇の感触が離れ、暎子ちゃんの涙で濡れた頬が、俺のデカ腹にすりすりする。


 公僕コンビが、安堵の息を漏らした。


 暎子ちゃんは、しばし、俺をうるうると見上げたのち、

「……きっと帰ってきてください」


 俺は力いっぱいうなずいた。

 そりゃ俺だって、無理に死ぬ気はない。生きて帰れば、そのうち暎子ちゃんは合法年齢に達し、俺も自動的に鬼畜ではなくなるのだ。


 巨大タマが、んむ、とうなずいて言った。

「ならば太郎の死骸だけは、食べずに持って帰りましょう」


 マトリョーナが苦笑して、

「猫にジョークが言えるとは思わなかったわ」

「ジョーク?」

 タマは、あくまで大真面目に、

「じゃあ、食べてもいいと?」


 俺と暎子ちゃんは、いっしょになってぷるぷるとかぶりを振った。


「心配しないで、エイコ」

 マトリョーナが言った。

「私だって、タロウに死なれちゃ困る。まして心中する気もない。本当に危なそうだったら、迷わず引き返すから」

 俺は思わず深々と頭を下げた。

「その節はよろしく」


 俺の乏しい社会経験によっても、真の修羅場で一番頼りになるのは、妙にアツい男の上役より、知的かつシニカルな女性責任者なのである。

 彼女らは間違っても、総員玉砕せよ、などとは言いださない、


     *


 月の明るい夜は、かえって星が目立たないかと思いきや、西アルプス上空の夜気はどこまでも澄み渡っており、天周のすべてが、銀河のように密な星の海となっていた。


 城の高楼から、タマの背にまたがって、一気にモンブラン・トンネル直上の針峰、エギーユ・デュ・ミディを目指す。


 タマは活力全開で、ばっさばっさと翼を打ち振るった。

「♪ じゃんじゃがじゃ~んじゃん じゃんじゃがじゃ~んじゃん じゃんじゃがじゃ~んじゃん じゃんじゃがじゃ~~~ん ♪」

 などと、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を口ずさみつつ、

「いやあ、今なら月まで飛んでみせます、私ってば」

 昂揚が増すに従って、理性は明らかに失調しているようだ。


 なるほど、噂に聞くシャブの怖さはそこにあるのだな、と俺は思った。

 実は俺自身、自前の脳内麻薬が出まくって、「あいむざきんぐおぶざわーるど!」状態になりかけている。

 月は無理でも日本くらいまでなら、夏のジェット・ストリームに乗って、楽に飛べそうな気がする。

 ここでツケあがると、タイタニックといっしょに海の藻屑と消えたり、[地獄の黙示録]になったり、崖下に落ちてトラックといっしょに丸焼けになったりするわけである。


 ちなみにタマの翼は、上腕の付け根というか、背中の肩寄りに生えている。築地本願寺の有翼獅子と欧州の幻獣グリフォンの、中間あたりを想像してもらえばいい。

 その翼のすぐ後ろに俺がまたがり、俺の背中にマトリョーナがしがみついている。

 そこいらの構図は、ペガサスにまたがるペルセウスとアンドロメダあたりを想像してもらえばいい。


 タマの手綱を握りながら、俺はできるだけ気を静めて言った。

「そろそろ水平飛行だ。なるべく谷筋を飛べ」

 ただでさえ酸素の薄い山岳地帯、各山頂などは四千メートルを越える。SRI謹製の体温維持肌着は着ているものの、このまま上昇したら、生身の人間は身が持たない。


「それから、もうちょっと静かに飛んでくれ」

 馬ならともかく、巨大猫にマッチするくつわはどこにも見つからず、俺はとりあえずタマの首輪に手綱を結んで飛んでいる。当然、安定性はきわめてよろしくない。


 タマは相変わらず、ばっさばっさと景気よく羽ばたきながら、

「こんだけの大デブ乗っけてシャナリシャナリ飛んでたら、あっというまに墜落してオダブツですぜ、大デブの旦那」

 などと、昔の駕籠舁かごかきか人力車夫のように、伝法な口調でまくしたてた。

 そう言われてしまうと、5Lの俺には返す言葉がない。


「大デブにだって取り柄はあるわ。温かいし、風よけにもなるし」

 マトリョーナが弁護してくれた。

「もうちょっとの辛抱よ、太郎。稜線を越えたら、あとは麓まで滑空できる。ほとんど揺れないはずよ」


 それからマトリョーナは、常のごとく冷静に周囲を探り、

「あっちに富士崎さんたちがいるわ」

「あっち? どっちだ?」

「右手のモンブラン寄りよ」


 なるほど、今俺たちが飛んでいるエギーユ・デュ・ミディ付近と、南西に数キロ離れたモンブラン山頂の間あたりを、いつのまにか中型ヘリが飛行している。ローターの音が届きそうな距離だが、タマの羽音と風音に紛れて気づかなかった。


 富士崎さんから通信が入った。

『羨ましいほど優雅に飛んでいるねえ、荒川君』

「乗ってるほうは、けっこうキツいです。寒いし、揺れるし」

『くれぐれも落馬、じゃない、落タマちゃんしないでくれよ。我々は最もアジトに近い山陰で待機する。着いたら連絡よろしく』

「了解しました」


 遠目には、確かに優雅なのだろう。

 満天の星夜のただ中を、右手にモン・ブランやドーム・デュ・グーテ、左手にデント・デュ・ジュアンやグランド・ジョラス、それぞれアルプスでも有数の針峰群を望みながら、有翼獅子が月光を浴びて飛んでいるのだ。


 タマはノリノリで言った。

「もうすぐ峠を越えますぜ、旦那!」

 すっかりランナーズ・ハイの無法松状態である。


 俺も調子を合わせたい気分だった。

「このまんま、まっつぐやってくれ、くるま

「着いたら酒手はずんでくだせえよ、旦那!」

「おう、ゴロツキの赤身をさかなに、飲めるだけ飲ましてやろう」

「そりゃかっちけねえ!」


 マトリョーナが呆れて言った。

「太郎も変よ。酸欠かしら。ザックに酸素ボンベ入ってるけど」

 俺はふるふるとかぶりを振って遠慮した。

 この上酸素なんぞ吸ったら、かえってラリりそうな気がする。


「♪ 撃滅~せ~よ~の~~ 命~うけし~~~ ♪」

 タマは荒くれ車夫から、神風特攻隊に脳内出世したようだ。そういえば神風の中にも、シャブをキメてから出撃した部隊があると聞く。


 ともあれ俺たちを乗せたタマは、ノリノリのまんま国境を越え、イタリア側の山麓に瞬くリゾートの灯に向かって、獲物を狙う大鷲のごとく一気に滑空した。


「♪ ああ~~ 神鷲の~~~ 肉弾行~~~~ ♪」

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