8 昔の名前で出ています


 御主人様を踊らせながら、堀端の小公園のベンチに誘導したところで、いよいよ散歩やランニングの人々が、頻繁ひんぱんに行き交いはじめた。


 俺はスマホのイヤホンを耳に掛け、いかにも通話中のように装っていた。

 こうしておけば、会話の相手が空気でも子猫でも、俺を狂人と判じる通行人はいないはずだ。

 ありがたい世の中になったものである。

 近頃は、ちっぽけなインナーイヤータイプにもマイク機能があるから、ひとりで路上会話している常人が珍しくない。


 並んで座った御主人様は、猫スープの大袋を膝に乗せ、小袋ぺろぺろに夢中である。

「どうだ、旨かろう」

「うん!」


 俺はわざとらしく堀割のさざなみを眺めたまま、隣の御主人様に訊ねた。

「――で、おまえ、ほんとに名前はないのか?」

 細かい身の上話は、人目のない部屋でゆっくり聞きたかったが、御主人様のちまちまぺろぺろが思いのほか長引きそうで、どうにも間が持たない。

「ミケとかチビとか、なんかあったろう」

「いっぱいあったよ。召使い、いっぱい変わったから」


 なるほど、下僕が変わるたんびに御主人様のほうが改名する、そんな認識らしい。これはやっぱり猫式だ。

「じゃあ、最近の名前――前の家での名前とか」

「エグランティーヌ」

「……フランスから来たのか?」


 俺の好きな古いフランス映画に、そんな名前の女性が出ていた記憶がある。あちらでは野薔薇のばらを意味する人名らしい。

 しかし御主人様のお召し物はともかく、御尊顔そのものを拝見するかぎり、ちゃきちゃきの和猫娘にしか見えない。


「ううん、横浜だよ。そんときの召使いが、フランスの人だったの。アンドレさん。とってもスマートで、イカしたおじさん」

 自称エグランティーヌは、遠い目をして言った。

「若い頃に死んじゃった奥さんが、エグランティーヌだったんだって。だから私もエグランティーヌ。きっと、どうしてもエグランティーヌの召使いになりたい人だったんだね」


 朝の空が明るくなったぶん、御主人様の赤い瞳も細っこい猫目になっており、それもまた異様というより、むしろかわいい。


「とっても優しい召使いで、すっごく大きなお屋敷で、お庭が広くて、木もいっぱい生えてて、ご飯はお肉とかお魚とか、おいしいものいっぱいくれて」

 どうやら金満家の異人館に住んでいたらしい。

 もしかして現在のファッションも、実はアキバ系ではなく、おフランス系の古衣装なのだろうか。


「でも、だんだんシワシワになって、死んじゃった」

 もとエグランティーヌは、逆ペットロス症候群のように、沈んだ声で言った。

「お屋敷もヘンになっちゃった。知らない人がいっぱい、行ったり来たり」

 おおかた相続税対策で、ホテルにでも改装されたのだろう。

「召使い、みんな先に死んじゃう。お家もなくなっちゃう」


 なるほど、太古から深山に棲息したという化猫や、から渡りの怪猫など生粋きっすいの妖怪は別状、家猫の尻尾が二つに割れて人語をしゃべったり化けたりするまでは、長い歳月が必要と聞く。

 まして猫又となれば寿命は半永久、どうしたって下僕かいぬしのほうが先に亡びる。


「俺は見てのとおり栄養満点だから、たぶん長生きするぞ」

 御主人様は頼もしげにうなずいた。

「うん。血も濃くって、おいしいしね」

 俺はぎょっとして耳たぶに手をやった。

 あれは愛咬ではなく、味見だったのだろうか。

 それでも、メタボは早死に確実などという最近の俗説に染まっていないのはありがたい。肥満が美徳とされていた、古き良き時代に育ったのだろう。


「じゃあ、その前は? やっぱり横浜の近所か?」

「えーと、京都ってとこ」

 ほう、西から東海道を下ってきたのか。

「京都にいるときは、シノブと呼ばれたの」

「ほう」

「神戸じゃナギサと名乗ったの」

 これはなんだか盗作っぽい気がする。いつも親父がカラオケで歌いまくっている演歌と同じだ。

「……マジか?」

「うん」

 ウケ狙いではなさそうだ。


 まあ考えてみれば、どのみち俺の脳味噌から生まれた幻覚なのだから、キャラ設定に小林旭の懐メロが紛れこんでも不思議はないのである。

 本来なら、横浜ハマではヒロミになるところを、フランス人のネーミングにヒロミはおかしいから、俺自身が無意識の内に、好きな洋画でカバーしたとか。


「あと、決まった召使いがいないときは、ニャンコ、ネコチャン、ニャンニャンとか、オマエ、キミ、あとソナタとか、なんかみんな色々」

 ソナタだけ違和感があるが、これも俺の幻覚が言うことだから、やっぱり俺自身の記憶の欠片かけらが、何かのはずみで紛れこんだのだろう。無学な俺だって、音楽用語の『ソナタ』くらいは知っている。


「でも、いっとー好きだったのは、やっぱり生まれて初めてもらった名前かなあ」

「ほう、初めはなんてった」

「タマ」

「そうか、ミケじゃなくてタマだったのか」

「うん、龍造寺さんちのタマちゃんだよ」

 ほう、化ける前は、ずいぶん立派な姓の家で飼われていたらしい。


 待て――龍造寺?

 俺は自問を兼ねて反復した。

「……龍造寺?」

「うん!」

 龍造寺家といえば、古典怪談おたく御用達ごようたしの超有名化け猫伝説――いわゆる鍋島猫騒動――あれの立役者ではないか。


「……おまえ、いったい今いくつなんだ?」

「やっぱりオマエよりタマがいいなあ」

「タマは今年でいくつだ?」

「知らない」

「いや、大ざっぱでいいから」

「忘れた」

「又七郎さんとか知らないか?」

「マタシチロウ? 知らない」


 おっと、言われてみれば龍造寺又七郎は、講釈ネタの非実在青年だったような気がする。

「じゃあ、えーと――龍造寺高房たかふささんは?」

 おぼつかない記憶をたどって訊きなおすと、タマは満面の笑顔で、

「うん! いっとー最初の召使いだよ。おじさんも知ってるの?」

「南の国の殿様だよな」

「うん、とっても偉い人!」


 と、ゆーことは――。

 もしかして、先の発言にあった『ソナタ』は、[冬のソナタ]とかの『奏鳴曲ソナタ』ではなく、時代劇とかの『おまえ』や『あなた』――その『そなた』?

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