加座間邸
鈍色の重い雲が低く垂れこめる中、三人分の足音が小川の畔をのろのろと歩いています。東京の中でも西寄りの、自然が色濃く残る地域に今回は来ています。目的の
恐らく今の時期以外には艶のある葉で覆われているらしい高い壁は、枯れ草色をした蔓が無数に這っているため、少々グロテスクに見えてしまいます。これから伺う先に怪異があると聞かされているせいもあるでしょうか。お屋敷周りに巡らされた小川を渡るための橋が数か所設けられている、という話でしたが、それがなかなか見えて来ないのです。
冷たい風が吹いて前髪をかき上げていきました。マフラーを口元まで引き上げた颯くんがもごもごと何かを言います。あまりよく聞き取れません。たぶん、寒いとか、まだ着かないのかとか、そういった類のことかと思えば、私の手元を顎でしゃくる様に示しました。
「アンタ、手袋かなんか持って無いのか」
「あぁ、防寒用のは今のところないですね」
「……寒いだろ」
「寒いです」
故郷の北陸は確かにたくさん雪の積もる地域でしたが、東京の冬はそれと種類が違うと言うか。冷たい風がよく吹くので底冷えする寒さがあります。
「ニットの手袋はあるにはあるんですが、指がほどけた時に絡まりそうな気がして、ちょっと遠慮してしまうんですよね」
「……変な女」
あらら。呆れられてしまいました。かく言う颯くんもショート丈のコートのポケットに両手をすっぽりと入れているので、きっととても寒いのでしょう。逆に、寒さを一向に意に介さない風なのは先生で、コートは着ているもののマフラーなどの防寒具は身に着けていません。きょろきょろと落ち着かない様子で辺りを見回しては地図と照らし合わせています。
「今回の訪問先の加座間さんは、この辺り一帯の昔からの地主さんだね」
「こんなに広い必要あんのかよ」
「水路で囲っているのは灌漑用水の名残でしょうか」
「かもねぇ。地主ってだいたい農家さんが多いからなぁ」
ふと、足を止めた颯くんが鞄を漁り始めました。颯くんも地図か何かを取り出すつもりでしょうか。その様子を見守っていた先生が何かを察したように数歩離れます。果たして鞄から出てきた物は。
「煙草、ですか?」
くしゃくしゃに皺のついたパッケージから細長く白い煙草を一本取り出すと、「まだ点くのか、これ」などと言いながら口に咥えました。長く鞄の中に入れっぱなしになっていたせいか、まるで猫の尻尾のように緩くカーブを描いています。続いてデニムのお尻のポケットから喫茶店のマッチを取り出して、火をつけると静かに口元へ。ジ、ジジ、とかすかな音がしました。それから、ゆっくりゆっくりと煙が立ち昇ります。
……そう言えば風がありません。そう気付くと同時に颯くんが、ん、と咥え煙草で示したその先には朱塗りの橋が、いつの間にか現れていたのでした。橋の向こうに立つ門柱には、黒っぽく変色した表札がかかっています。よく見ればそこに書いてあるのは「加座間」の文字。
「っ、まさかっ! 僕いま怪異に巻き込まれてたッ!?」
「……むじなに化かされたら煙、ってな」
感激のあまりカメラをあちこちに向けて写真を撮る先生の笑い声をそのままに、颯くんが橋を渡り始めるので、慌ててその背中に続きます。
「勧修寺先生、置いて行かれますよ」
「でも僕、煙草の煙は苦手なんだよ! これじゃ自分で試せないじゃないか!」
その前に一旦むじなに化かされないと試せない訳ですが、それはともかく。
橋を渡るとその先は途端に雑木林が広がっています。あまり手入れがされていないのか、落ち葉で出来た吹き溜まりが所々に見えました。ひんやりとした空気に包まれた空間は何かに似ています。
煙草の吸殻を携帯灰皿にしまう少し猫背気味の背中に続いて歩くと、足下で小枝がぱきりと割れ、鬱蒼と茂る木々の合間でギギィと鳥が鳴きました。
「……神社」
神社の参道に足を踏み入れた時に似ているんだ。思わず口にすると颯くんが振り返って小さく頷きました。
「張ってある、結界が」
一般の邸宅に結界を張るというのはあまり例を見ないものです。それが意味するもの、つまり、ここには何かがある。そう気付いた頃に私たちの目の前に現れたのは、古めかしい大きなお屋敷でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます