祓う―1
とん、と何かが私の肩に置かれました。ほとんど反射で顔を向けるとそれは颯くんの手で、颯くんは凪いだ黒色の瞳で私の目をじっと覗き込んでいたのでした。くるくるとした癖のある長めの前髪の間から覗く、つり目がちのアーモンドアイ。吸い込まれそうに静かで、夕凪の穏やかな色。
「今回の浄化対象だ……アンタには、何が見えた?」
何が、見えたか。
何を、見たか。
部屋の中へ視線を走らせると、赤い花弁の塊も、ミイラのような人影も、どこにもありません。心配そうに見守る柳井さんと、ヘッドボードを起こした状態のベッドに横たわったまま不安そうにこちらを伺っている女性の姿が見えました。こちらが加座間婦人なのだと分かりました。
どうやら私は、現実とは異なる光景の中に入り込んでしまっていたようです。
加座間婦人の皮膚は大部分にシミのような着色があり、めくれて、あるいは鱗状に剥がれ落ちている状態で、とても痛々しい印象を受けました。普通の皮膚炎とは程遠く、素人目に見ても重症で、確かに脱皮と現しても大げさではない状態かも知れません。
先生や颯くんの分析によれば、どうやら私は怨念や
これまでは意図しない念や呪にあてられるケースばかりでしたが、今後はこれを自分のタイミングで意図的に読み取ることによって事前に防いだり、力をコントロールしていこうという方針でしたが……やはり、まだまだ時間がかかりそうです。
しかしながら、その作用が働いて見えたものは、ここにある現象を紐解く手掛かりとなります。ですから少しだけ怖い気持ちはありますが、私は見たもの、感じたことを、きちんと説明をしなければなりません。
深呼吸をひとつすると、先ほどまであんなに強く香っていた甘い匂いが身体から抜けていくのが分かりました。颯くんと勧修寺先生の目を順番に辿ると、二人とも準備が出来ている顔をしています。私は意を決して口を開きました。
「お庭の片隅に、ハーブ園があります」
*
奥様は良い香りのする草花が大好きなお方です。朝な夕なにお庭に降り、淡い陽の中で嬉しそうに植物と戯れるお姿は、まるで妖精のようでした。
初めの頃、旦那様もそんな奥様のお姿に微笑まれてはご一緒に花園で過ごされたものです。夕暮れのお庭で仲睦まじく草花を愛でるお姿は、本当に、絵画から抜け出てきたようでした。
ですが、ある時を境に、旦那様はお帰りが遅くなり始めました。南方の国へ、お仕事で向かわれることになったのです。
奥様は始めこそ着いて行くおつもりでした。しかし元々のお身体の具合もあって、旦那様からは同行を許されず、お一人で旦那様を見送られることになったのです。
便りはありましたが、それも数週、数ヶ月と経つうちに途絶え、奥様は段々と塞ぎ込んでしまわれました。ただただ広縁から無心にお庭を眺めてお過ごしになる時間が長くなっていったのです。
心無い者が、旦那様は南方で新たな家庭を持ったのだと、尤もらしく吹聴して回りました。わたくしはそれを諌めましたが、人の口に戸はたてられないものです。
いつしか奥様はすっかりと心を病んでしまわれました。
わたくしは、せめて奥様に大好きな草花の香りを愉しんで頂こうと、お部屋に精油をお持ちしました。薄めた精油を奥様の髪に纏わせました。お庭の花園のような芳しい香りが広がり、奥様はほんの少し微笑まれたようでした。精油の薫る間は奥様のお加減もいくらか良くなるように思えました。
清拭をする際のお湯に数滴、祈りのように精油を混ぜました。お化粧水を塗って差し上げる時に、ほんの少しだけ。強張ったお身体をマッサージする際にも手のひらで温めた精油を。精油を奥様に。この美しくてお可哀想な奥様に。
*
ゆらゆら揺れる心持ちで、先ほど流れ込んできた思念を、浮かんでくる順に口に出します。その間、柳井さんはずっと白いエプロンの裾を指先で静かにさすっていましたし、加座間婦人は目を伏せたままでした。
話している内に何度か現実感が遠のき、夢の中で話している心地になりましたがその度に、透き通った柔らかな音がどこからか微かに鳴りました。その音に誘われるように、私は何度でも踏みとどまる事が出来るのでした。
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