対面
お屋敷の正面玄関はよく磨き上げられた古い木製扉です。扉にも、それが取り付けられている壁にも窓がなく、あちら側を伺い知ることはできません。まるで外界を拒絶しているようにも思えますが、幸い扉にはノッカーが付いていますので鳴らしてみることにしました。
コン、コン。
思いのほか小さな音です。
「加座間さんこんにちは、霞ヶ関の方から参りました!」
「おい、言い方が詐欺だぞ」
追加で呼びかけをしてみたら颯くんが焦った声を出しました。言われてみればそうだったかも知れません。これは……ちょっと間違えてしまいました。
所属している「浄化室」こと「対怪異浄化情報収集室」は機密情報を扱う国直轄の特務機関のため、一般的には知られていない組織になります。例えば消防署とか、裁判所とか、そういった機関とは趣が異なるので、どう名乗るべきか考えていなかったのは失敗でした。あとで勧修寺先生に教わっておこうと思います。
音が届いていないのか、お屋敷はしんと静まり返っています。警戒されているのだとしたらもう一度あらためて「詐欺ではありません」と声かけしたほうが良いだろうかと思い始めたころ、わずかに扉が開きました。その隙間から、薄く、甘い匂いがします。芳香剤か、もしくはお香でも炊いているのでしょうか。
「
スッと一歩前に出た勧修寺先生が、とても爽やかな笑顔になりました。「外ヅラ……」という颯くんの呟きは黙殺されています。
確かに、美しい銀縁の眼鏡をかけ、細身のスーツをきれいに着こなした先生は、長髪を背中に一纏めにしている少々胡散臭い出で立ちを差し引いても、とても感じの良い方に見えます。いえ、別に、普段はどうなのだというお話ではなくて。
胡桃沢さんというのは政府の窓口に近い管轄にいらっしゃる方で、浄化室と依頼者さんを繋ぐ役割をなさっています。小柄で少し気の強い女性で、いつも忙しそうにされていますが、基本的にはとても優しい方です。
「家政婦の
押し開かれた扉の向こうには、エプロン姿の女性がひとり立っていました。私の母よりは年下でしょうか。あまり顔色が良くないように見えるのが気がかりですが、心地の良いアルトが良く通ります。
何故だかまるで異界への門をくぐる気持になりながら扉を通り抜けました。背後で大げさな音を立てて扉が閉まって、私は無意識の内に、もう戻れないのだという感想を抱きました。
柳井さんがきびきびとした足取りでお屋敷の廊下を進んで行きます。
お庭に面して掃き出し窓が並ぶ広縁。東西に長いこのお屋敷は窓の多い造りをしているようです。よく磨かれた床には艶があり、その反射のせいか、廊下全体が明るい印象を受けます。
実家も広い廊下のある家でしたが、気候のせいでしょうか、かなり趣が違うように思えます。とろとろと流れる時間。陽射しと、緩く立ち昇る良い香り、静かな空間です。漫然と柳井さんの背中を見ている自分に気が付いた頃、一行が足を止めたのは雪見障子のお部屋の前でした。
「こちらです。奥様、お見えですよ」
「失礼します。ご紹介に与りました、浄化室主任の勧修寺と申します」
普段はよく通る先生の声が、まるで水の中で聞いているかの如くどこかぼんやりと響きます。耳が、変です。横から颯くんがぼそりと呟いた言葉を拾い損ねました。眩暈がしているのか景色が歪んでいるのか理解出来ないうちに障子が開かれて、私たちの目の前には「奥様」の姿がありました。
ローテーブルに置かれたお盆の上には、水差しと、華奢なガラスで出来た渋い色合いの小瓶、ふわりと重ねられたガーゼ、お薬の袋が幾つか。その奥の空間。畳の上に暗い赤色の何かが広げてあります。よく見るとそれは大きな花弁で、柔らかそうな肉厚の花弁の塊の上に半ば埋もれるように横たわる人物が居ます。
その姿は土色にひび割れて、悲しげな瞳だけがギョロリとこちらに向けられます。根のように痩せこけた腕はゆるゆると畳を通り抜けて地下へと潜り込み、崩れ落ちそうに渇いた落ち葉の唇が、ゆっくり、ゆっくりと動いて、格子の間を抜けるもがり笛のような呟きが寂しげに漂います。
悲しい、悲しい。
苦しい、苦しい。
もうあなただけが頼りなの。
お願い、私を見て。
あなた、置いていかないで。
父様と母様のようなあれは。
あれは、とても悲しいことなのだから。
頭の中に奥様の思考が大粒の雨のように沁みてきます。体がわずかに動くたび、ぽろり、ぽろりと皮膚が剥がれ落ちていくのが、なす術もないまま目に映りました。その下から覗く皮膚も土気色に干からびて、裂け目には薄く血液が滲んで、なんて痛々しいのでしょうか。
思わず息を飲んだその瞬間、花の蜜に似た芳醇で濃厚な香りが私の身体の中を駆け巡りました。追い打ちをかけて耳元に、金属音にも似た音の塊が突き刺さります。
あぁ、あぁ、あんなにお美しかった奥様が。
優美で繊細で華やかで。お庭の芍薬のような。
綻ぶように微笑んで、蜜のように艶やかなお声でわたくしを呼んでくださる奥様のお声はもう、しばらく耳にできておりません。
奥様、本当に本当にお美しいお方。
それがどうして。
こんな、お姿に。
その時耳の直ぐそばに、誰かが唇を寄せました。温かい息が耳朶に触れます。
「
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