帰還

 湯気の立つマグカップが目の前のテーブルに置かれて、ふと意識が戻りました。コーヒーの香りは現実を連れてきてくれるのだなと思いながら、ゆっくりと手を伸ばします。

 加座間邸を後にした私たちは浄化室の事務所へと戻ってきていました。

 先生は早々に胡桃沢さんの所へと終了報告に出てしまい、室内には私と颯くんの二人きりです。


「ありがとうございます」


 思い付いてお礼を言いましたが、颯くんはまるで聞こえてないみたいに、座り込んだソファの上で自分のマグカップを傾けた姿勢でいます。しばらく間があってから視線をこちらに向けないまま、なぁ、と私に呼びかけました。


「見ただろ?」

「はい、色々と」


 言ってからマグカップを置いて、自分の両腕を抱きしめるように包みました。正直なところ、思い出しても震えてしまう程、とても怖かったのです。強い念の見せるものが。人の心が呼び寄せるものが。人が人を慕う心が、あんな風に恐ろしく禍々しいものに育ってしまう事が。


「……やめとくか」

「辞めません!」

「今回無事でも、次はタダじゃ済まねぇかも知んねぇ」


 強い口調に驚いて颯くんの方を見ると、颯くんもこちらに視線を向けていました。言葉とは裏腹に、とても困った様な顔をしています。


「私にも、教えて下さい」

「何を」

「せめて足手纏いにならない程度で良いので、その、祓い方を」

「……アンタが祓う、ねぇ」


 颯くんは考え込むように、私からマグカップの中身へと視線を移したまま黙ってしまいました。自分でも我儘を言った自覚はあります。それでも、今のままの私では足手纏いにしかならないのは、他ならぬ自分が一番良く解りました。

 私はなりたいのです。

 ソファにだらりと腰掛けた颯くんの姿は、相変わらず破けたデニムと、パーカーの肘のあたりには少し煤けたみたいな汚れがついていますが、私はこの方がとても強いことを知っています。

 こんなふうに強くなりたい。嫁に出される運命しか持ち得ない梅小路家の娘から抜け出したい。自分の手足で生きていきたい。そしてもしできる事ならば、家にかかっているを、自分の手で解きたい。ここへ来て、私はそう思うようになりました。


「恐れは大事だよ、梅小路さん。それは、きちんと無くさないようにしておいた方がいいものだ」


 扉の閉まる音と共に勧修寺先生が戻って来ました。


「……立ち聞きかよ」

「聞こえただけだよ」


 勧修寺先生は柔らかく微笑むと、通りざまに私の頭をぽんぽんと軽く叩きました。これでは子供扱いされていますが、私の我儘が子供じみているという事でしょうか。少しだけ、しゅんとしてしまいます。


「僕はね、いいと思うよ」

「……おい、軽々しく」

「だって、梅小路さんが居ると分かりやすいんだよ」

「わかりやすい、とは?」


 差し挟んだ疑問に、尤もらしい顔で頷いた先生は「そのままの意味だよ」と言います。


「颯くんはね、勝手に理解して勝手に祓うんだ。説明がない。これがどういう事だかわかるかい? 僕が、見えてない僕だけが、蚊帳の外ってわけだ。そんな事ある? 僕は仮にもここの室長なんだよ!? 知識だけで言ったら僕の方が颯くんより相当詳しい自信はあるのに! 目の前で起きてる怪異が理解できないなんてっ、そんなの悔しいじゃないかっ!」


 静かに語り出したと思えば突然のヒートアップ。よっぽど堪り兼ねていたのでしょうか。

 たしかに私は見たものを詳細に口にしましたが……先生が注文を付けたとして、颯くんが果たしてそうしてくれるかと言えば。


「あほらし。なんでわざわざ説明すんだよ……祓やいいんだろが」


 両手を天井に向けた先生が肩をすくめて見せました。その仕草がどことなく道化師のようで私はちょっとだけ笑ってしまいます。


「それにね、颯くん。梅小路さんの家は陰陽師の系譜なんだよ」

「……だからか」

「はい、実は。と言っても、もう何代も前に廃業していますし、最近ではおそらく亡くなった祖母と、私くらいしか素養はありません」

「うんうん、越中国の梅小路家と言えば、あの辺り一帯を取り締まっていた陰陽師の名士なのだよ」


 話が少し大げさですが、幸いにも私にはそういった力が少しは備わっています。この場所で学ばせて貰うことで、何とか皆さんのお力に……というのは烏滸がましいですが、自分らしい生き方をしていきたいのです。

 何も言わずにマグカップの中身を空にした颯くんが、小さく息を吐いて、それから私を見ました。


「言っとくが、俺は賛成した訳じゃねぇ。あんたが陰陽師の家系だってんなら、俺は俺で参考にできる事があるかも知れねぇってだけだ」

「……はい」


 颯くんの参考になるような何かがあるかは分かりませんが、ひとまず受け入れては貰えそうです。神妙に頷いてみせると、颯くんはポケットから雑に取り出した何かをこちらに放りました。

 シャラン、と受け止めた手元で鳴ったもの。


「鈴!」

「持っとけ」

「で、でもっ、貴重な物を……っ!」

「どこにでも売ってる土産物の水琴鈴すいきんすずだ」


 土産物? そうなのでしょうか。


「ま、土産物ではあるね」


 勧修寺先生が同意して、話は終わりだとでも言うように颯くんがぴらぴらと手を振りながら立ち上がりました。


「飯だ飯。何か食って帰る」

「僕は温かいものがいいなぁ」


 ……あ。胡桃沢さんに頂いた、近所の食堂のサービス券が確か今日までです。せっかく頂いたものを無駄にするのは良くありません!

 私はデスクの袖机を開けてサービス券を掴むと「待ってください! ドリンクサービス券あります!」と、二人の後ろ姿に声をかけます。

 慌ててパソコンの電源を落とす時、視界に入ったデスクトップ画面の何かが頭に引っ掛かりましたが、事務所の電気を消す頃にはすっかり頭から抜け落ちていたのでした。




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