最終話 後

 ティーラウンジを出た私たちは、いつもの駅から帰るつもりで日比谷公園を抜けていくことにしました。

 公園に向かう横断歩道を渡ると右手にお花屋さんがあります。暮れはじめた空気の中で煌々と明るい店内が見えました。何とはなしに見れば、ひとりの男性が大きな薔薇の花束を店員さんから受け取っている所です。きっとこれからどなたかにプレゼントするのでしょう。少し緊張気味に上気した頬は、見ているこちらまで目を細めてしまうような光景です。こんな風にして選んで貰ったお花なら、贈られる方も、きっと嬉しいことでしょう。

 この数か月、怪異と向き合うことで人の心の恐ろしい側面にたくさん触れてきました。けれど、人を幸せにするのもやはり人の心なのです。優しさや、人を思い遣る心は、当たり前のようでもとても貴重なのだと、あらためて感じています。

 少し歩くと、歩道の端に濃いピンク色のふわふわのついた木を見つけました。夕暮れの中でも色がわかるんだなと思いながら、あれ、と指差しました。


「寒桜が咲いてますね」

「桜?」

「早咲きの品種の桜ですよ」


 ふぅん、とあまり興味なさそうながらも寒桜に目を向ける颯くんの横顔を見て、そう言えば、と思い出したことを口にします。


「颯くんて、たまに私のことを名前で呼びますよね」

「…………」

「好きですよ、私も」

「んなっ……!?」

「手前味噌ですけれど、なかなか良い名前でしょう。『翠子』は新緑のイメージで付けられた名前なんです。私の故郷はとても雪深い土地ですから、春の訪れが待ち遠しくて、春が来て木々が芽吹くとそれはもう嬉しいものなんです」


 そこまで言い切って再び颯くんを見れば、あら、なんだか耳が赤いように見えますが、冷えてきたんでしょうか。やっぱり、暮れていく景色の中でも色はわかるものなのです。

 寒桜が咲いているとは言え、まだまだ寒い日が続きますから、体調には気をつけないといけません。

 それでも、待ち遠しい緑にあふれる季節もまたすぐにやってきます。あ、その前に桜が咲く季節が始まります。


「ねぇ颯くん、桜が咲いたらみんなでお花見に来ませんか?」

「……また、面倒くせぇ事を言い出したな」


 否定、しませんでしたね。と言うことは、颯くんも乗り気だという事です。私もだんだんと颯くんの気持ちの動きがわかるようになってきたのです。それが少しばかり誇らしく思えて、ついつい頬が緩んだままの顔で颯くんを見てしまいました。ふい、と視線を逸らされて、やっぱり颯くんは猫に似ているなぁと思ってしまいます。

 お花見弁当の心当たりを胡桃沢さんに聞いてみないといけません。ちょうど良いスポットがあるといいのですが、勧修寺先生に伺うとまた何か曰くつきの場所を紹介されそうなので、ここはひとつ、自分で調べてみましょうか。


「……なぁ、この後さ」


 何かを言いかけた颯くんの言葉を遮るように、スマートフォンがピリリリと着信を告げました。画面を覗いた颯くんが低く唸ってから、こちらにさっと視線を走らせます。先生だ、と呟くのが聞こえました。今日はお休みのはずですが、緊急の用事でしょうか。


「何だよ」


 相変わらず、室長に対してその言葉遣いはどうなんでしょうかと思ってしまう応答の仕方をした颯くんが、無言のまま電話を耳から離してスピーカーにしました。途端、スマートフォンから溢れ出した音声が私の耳にも届きます。


「……という訳なんだけど、これって大丈夫だと思うかい?」


 何かを尋ねる先生の声の向こうに、ざわざわと何人もの人の気配がしているのが分かりました。老いた声。子供の声。男性の声。女性の声。泣いている声。怒っている声。笑い声。あらら、これは。


「だいじょばねぇヤツだな」

「そのようですね」


 すぐ行く、と言い放って通話を終了した颯くんがこちらに視線を向けました。くるくるとカールした長めの前髪の間から覗く、黒く凪いだ瞳。以前の私はこれを怖いと思ったこともありましたが、今ならわかります。颯くんは世話焼きで面倒見が良くて、とても強く、そしてとても優しい人です。そんな颯くんのことをいちばん傍で見ていたい、なんて思ってしまう自分がいることに実は最近気が付いたのですが。これは、当分は秘密にしておきたいと思います。


「さあ、行きましょう!」

「仕方ねぇな」


 自分の手足で生きていきたい。特別な自分でいたい。強くなりたい。人を守りたい。どれも本当の気持ちです。新しく加わった小さな気持ちは、私の力になってくれるような、そんな気がします。もっと強く、もっと優しくなって、そうしたら。

 大切に育てた気持ちをいつの日か告げられたらいいな。

 そんな事を思いながら、私たちは青信号の灯る横断歩道へと駆け出しました。

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翠子さんの結び目はほどけない 〜浄化室怪異見聞録〜 野村ロマネス子 @an_and_coffee

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