烏丸颯
先生が開いた襖の中は畳敷の二間続きの大広間で、部屋と部屋の境目を、片側に寄せられたままの襖が仕切っている。
「きれいに片付いてますね」
「もっと派手なのを想像してたんだけど」
部屋の中を覗き込んだ梅小路翠子が言って、いくらか落胆した顔で先生が同意する。
部屋の隅に積み上げられた座布団。鴨居に掛けられた額はモノクロ写真が入ったままで埃を被る。最奥に床の間があるのが見えた。あちらの部屋が奥座敷かと思えばそうではなくて、間取り図によれば向かって右側、つまりは広縁と反対側にも部屋があるらしい。ここからは見えないが、既にざわざわとした何らかの気配を感じる。
「さて、お三方。ここからは親指を隠すのがルールらしいからね。お忘れなく」
胡桃沢さんとスピーカー通話状態になっている先生のスマホから指示が飛ぶ。根拠はよく分からないものの、ルールはルールだ。親指を中にいれて軽く握り、いざ敷居を跨ぐ。
「わぁっ!」
……と、寸前でスマホから悲鳴が響いた。
「どうしたっ?」
慌てて問いかけると、ややあって胡桃沢さんの困惑した声が答える。
「……そっち、揺れなかったのか?」
「……揺れた?」
「なんにもないよ?」
「え、胡桃沢さん、大丈夫ですか?」
地震があったとしたらこの屋敷が真っ先に揺れるだろうし、局地的な揺れと言うにも程度が過ぎる。となると、おかしな事が起きている可能性が出てきたみたいだ。
「わかった、僕が戻ろう。二人はくれぐれも無理しないで」
「無茶してんのは先生だろうが」
一番エンジョイしていた癖に真っ先に引き返す決断をする潔さは責任感からくるものだろう。こんな時、いつも憎まれ口を叩きながらもどこかで安心してしまう自分がいる。きっとまだ自分は未熟なのだ。けれど、そうだからこそ、ここはきちんと完了しておきたい。
先生の背中を見送り、すぐ横を見れば手を握りしめたままの梅小路翠子の姿がある。薄暗い屋敷の中でも識別がし易いのは赤い手袋をつけているからだ。
「行けるか?」
「もちろんです、行きましょう」
何も凝りていない顔をする。たった数か月で人はずいぶんと変わるものなんだな。そんなことを思いながら大広間へ向き直った。
一歩、踏み出した。途端に周りの空間がぐにゃりと切り替わり、たちまち目が眩む。明るい。これは電燈の光。虫の羽音にも似た人の話し声が、耳を何重にも囲う。明るさに目が慣れてきて視界が開けると、そこは宴席の最中だった。
広間の左右にそれぞれ一列ずつ、整然と並ぶ黒塗りのお膳。膳の上には湯気の立つ料理があり、客人たちが席についている。彼らの恰好は思い思いで、黒紋付に黒い頭巾を被っている者、黒いワンピースにレースのベールが付いた女優帽を合わせている者、羽織袴で肩に鼓を乗せている者、大柄な者、小柄な者、鳥の頭をしている者、狐の面をつけている者、白く美しい花嫁装束に身を包んでいるけれど手元はカギ爪が覗いている者、両の目は閉じているのにぎょろりとした目玉が額の中央についている者。それらが膳を囲い、料理を口に運び、酒を酌み交わし、手を叩き、声を上げながら宴席を催している。
どのくらいそこに佇んでいたのか。ふと袖を引かれて我に返ると、心配そうな面持ちの梅小路翠子が顔を覗き込んでいた。両手で作った握りこぶしで服の袖を引いたようだった。
「……颯くん」
「悪ぃ」
「行けそう、ですか?」
「あぁ、行こう」
並んだ膳と膳の間をそろそろと歩く。恐らくこちらの姿は見えてはいないのだろうが、やはり、なるべく気配を出さない方が良いはずだ。
「おやおや? 何やら匂いませんかな?」
「うぅん、……言われてみれば、何やら匂いがするような?」
化け物のひとりが言うと、隣の者が鼻を鳴らして同意する。親指を隠している間は認識されない
足早に宴席を通り過ぎる。次の間に踏み込んだ途端に宴がミュートされて、代わりに読経が響いた。啜り泣く声と押し殺した嗚咽。息のみで交わされる諍いと、時折り漏れる抑揚の無い声。衣摺れ。咳払い。それを発しているのは床の間に向かって座る顔のない影の集団で、黒衣に包まれた大小の肩を並べている。あぁ、これは葬式をしているんだ。写真立ての中の故人の顔は黒く塗りつぶされていて男か女かも分からない。
問題の奥座敷はと右手を伺えば、襖はぴっちりと閉じられていた。それでも確かに複数人の気配がある。祓うにしても中の状態を確認しないとならない。もし宴席の連中や葬式の奴らも併せて祓う必要が出て来たら結構な手間だ。情報を持ち帰って先生に分析してもらった方が良いだろう。
「思ったより大掛かりになりそうだ。確認できたら一度引き返す」
「分かりました」
息を潜めて襖に近付く。引手に人差し指をかけ、ゆっくりと力を込めて隙間を作った。桟の間から覗き込めば、白装束に白い面布の者たちが押し黙ったまま座っている。それぞれの前には短刀の乗った三方が置かれ、ご丁寧に刀の柄の部分は外した上で白い紙を巻いてある。集団自決。そんな単語が頭の中に湧いて出た。なんつう、気色の悪い。右に三人、左にも三人、最奥に一人。人数は把握した。
「このくらいのヒントがありゃ何とかなるだろ。戻るぞ」
言いながら振り返る瞬間だった。広縁側の障子が音もなく開いていくのが見えた。低い位置に血色の悪い痩せ細った手が現れて、続いて子供が顔を出す。さっき、大広間に入る前にいたヤツか。面倒な予感がする。
障子の隙間から入り込んだ子供は鳴り止まない読経の中を駆けて、葬式をしている連中の座布団を踏みつける。こいつ、まさか憑りつく気か。とっさに身体が動いて翠子の腕を引き寄せる。
「颯くん、手っ!」
「!!」
突然のことで親指を隠すルールがうっかり頭から抜けていた。襖の向こうの人影が一斉にこちらに顔を向ける。ヤベェ。見つかったか。一糸乱れぬ挙動で立ち上がった白装束たちが音もなくスススと浮くように動いて、襖を開け放つ。たんっ、という乾いた音を合図に翠子の腕を掴んで走り出した。
「翠子っ、出口まで走るぞ!」
「はいっ!」
次の間の宴席は蜂の巣を突いたかの如く大騒ぎで、四方八方から手が伸びてくる。
「人の子じゃ」
「人がいるぞ」
「うまそうじゃ」
「魂を」
「こちらに寄越せ」
人の手もそうで無い物もがむしゃらに薙ぎ払いながら駆け抜ける。足首を掴もうとする者。長く伸ばした指先で摘み上げようとする者。余興とばかりに手を叩く者。囃し立てる者。嗜める者。
それらを躱して大広間を飛び出し廊下を右に折れる。このまま直進すれば玄関。戸を外して入って来たから出口は開け放たれている。走れ。早く。振り返って確認すると翠子はちゃんと着いて来ていて、腕を掴んでいるのだから当たり前のことだったがそれでも安堵しながら三和土に飛び降り、屋敷の外へと駆け抜けた。
……はずだった。
目の前に自分の身体が倒れているのがわかる。古めかしくひび割れた玄関ポーチに伏しているのは、間違いなく自分の姿だ。
それに、翠子が駆け寄る。
「……颯くん? 颯くんっ!!」
すぐに先生と胡桃沢さんが慌てて走って来る。二人とも倒れている俺の身体を見ていて、いまだ玄関の三和土に立ち尽くす俺の方には気付く様子がない。
背後で何者かが笑ったように感じた。後ろを向けば、白装束の七人が上り框から見下ろしている。先程は気づかなかったがその首には紐のついた木札が下げられており、それぞれに旧字体の番号が壱から漆まで書かれている。それで、この白装束が何なのかを理解した。
「……うぜぇ。七人ミサキかよ」
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