幕間

出会い―1

 絶対に絶対に覚えてなんかいないと思うけど、梅小路翠子とは以前に遭遇していた事がある。まだ子供の頃で、母に次いで兄まで亡くした自分はまるで世界に終わりが訪れたように塞ぎこんで暮らしていた。

 色もなく、味もなく、手触りも感じられない日常は存在していないのと同じだった。姉や父、それに祖父の気遣うような心配そうな表情が、そんな顔を自分がさせてしまっている事が、たまらなく申し訳なくて消えてしまいたかった。でも「自分から世界を抜け出たら母や兄と同じ場所へは辿り着けない」と諭されていたおかげで、おかしな真似をする事はなく、その代わり、友達と遊ぶような素振りで家を出て、公園のベンチでひとりぼんやりと過ごす時間が増えていった。


 それは冬の昼間だった。

 いつものように木陰のベンチに座って、少し離れた場所でボール投げをする親子の姿を見るともなしに見ていると、遠慮がちに声をかける者があった。

 最初は怪異の類かと思った。そう感じてしまう程、それはあまりにも不思議な気配だった。


「ボク、迷子さん?」


 呼びかけを無視しようとしたけれど、どうしてもその不思議な気配の理由が気になってしまい、つい、顔をあげた。女の子だった。

 自分とそう大差ないだろう年齢の、なんてことのない女の子。仕立ての良さそうなよそ行きの服を着て、手に持ったバッグもカッチリとした印象の、まるで大人が持つような品だった。自分の周りで見かけるその年頃の女の子はだいたいみんなキャラクターもののプリントがついた衣類や小物を身につけていたから、大人の格好をした子供みたいで、自分の目にその姿は酷くアンバランスに映ったのだ。


「……変な女」


 それで憎まれ口を叩いた。昔から口が悪いのは自覚している。

 女の子はパチクリと瞬きをして、迷子じゃないのね、と言った。安堵したような言い方が大人びていてますます変だと感じたけれど、そいつは何も言わずにベンチに腰掛けた。膝の上に置いた鞄から淡い色合いの毛糸玉を取り出して、そのまま編み物を始めてしまう。

 隣に座られる事を拒否しようと思ったのに、その感じがあまりにも自然だったのでタイミングを失ってしまい、仕方なくそのままで、また前を向いた。

 父親らしき男とボール遊びをしていた子供が、遊び疲れたのか、原っぱの上にレジャーシートを敷いて見守っていた母親の元に駆け寄る。耳に甘えた声が届く。何の遠慮もなく子供らしい子供として過ごす姿が羨ましかった。

 もっともっと小さな頃、「謝る」ということは間違いの全てを帳消しにすることと同じだったはずなのに、どこに向かって幾ら謝ったとしても、もう兄も母も戻らない。


 あの日、川の底に沈んでいる何かからの呼びかけに応えてしまった事ほど、後悔したことはない。は川底で岩に挟まれてしまったのだと困った声で訴えかけていた。その頃の自分は妖や怪異の類と自分達との境をあやふやに認識していたせいで、それが裏目に出てしまった。

 助けてやろうと思った。あまりにも情け無い、困った声だったから。それが演技だったのか、本当に助けを求めていたのかは未だ持って不明だ。

 川の水は冷たく波だってくるぶしを濡らした。じゃぶ、じゃぶ、と音を立てながら声のする方へと歩いて行く。水嵩は膝まで増え、さらに進むうちに腿に達する。足の裏がぬるりと苔を踏んで半ズボンの裾が水面につく。水の中から声がする。手を伸ばして、指先、手のひら、手首、届かない。肘まで、肩まで、もう少し。


「颯っ!」


 反対側の手を掴んでザブリと引き寄せられる。驚いて振り返るとそこに居たのは兄だった。川原で平たい石を拾い集めていたはずの、日焼けした兄の顔が、常よりも険しい表情をしている。


「危ないだろう、ひとりでこんな事しては駄目だ」

「ひとりじゃ……」


 ひとりじゃないよ、水の中にアレがいるんだ。そう言い訳する言葉は飲み込んだ。代わりに「ごめんなさい」と項垂れる。兄にはあれらが見えていないのだとその頃にはもう知っていた。

 見たことのない顔で、聞いたことのない声。兄が怒ったのは後にも先にもそれきりだった。

 わかればいいと言ってから微笑んだ兄は手を繋いでくれた。温かな手だった。


「戻ろう、颯」


 そう言って川原を目指して一緒に歩き出したはずなのに、辿り着いた岸で振り返った場所に兄の姿は見当たらなかった。さっきまで繋がれていたはずの手も、いつの間にか解かれていた。

 捜索は数日に渡って行われたれたが兄は最後まで見つかることがなかった。ただ、履いていたスニーカーの片方が、まったく濡れていない状態で川原に遺されていただけだった。

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