梅小路翠子―3
颯くんは南東と南西の二箇所に結界札を置くつもりなんだなと思いながら、私は庁舎の北側に向かって走り出しました。
途中、開いたままの扉から困惑したような声が聞こえてきて「これはもしかしたらあの画像の件なのかも」と思ってしまい、そうなると気が気ではなく足がもつれそうになります。お騒がせしてすみません。心の中で謝りながら、とにかく私は目的の地点を目指しました。
落ち着いて、落ち着いて。自分にそう言い聞かせつつ通用口から外へ出て、庁舎の北側、本館と別館のちょうど間くらいに立ちました。恐らく私の受け持ちのが五芒星の頂点だとしたら、この位置で間違いないでしょう。よし、きっと出来る。アスファルトの上でお腹に力を入れ両脚を踏ん張ります。
ざわり。湿度の低い、昼間とは言えひんやりした風が街路樹を揺らしながらやって来て私の頬を撫でます。
姿は見えませんがこの建物の周りに、勧修寺先生と胡桃沢さんも構えているはずです。颯くんは大丈夫でしょうか。手に持った結界札をゆっくりと空に翳すと、私は静かに目を瞑りました。さわさわ揺れる街路樹。歩道を行きかう通行人の穏やかな声。次々と通り過ぎて行く車の列。こうしているとまるで何も起こっていないみたいです。
ふと、手元のお札が震動したような気配がありました。目を開いて左右を見渡すと、右側の低い位置から空気の色が変わり始めています。驚いて目を凝らすとそれはお札と同じくらいの大きさのタイルのような塊が、まるでドミノみたいにパタパタと空間の上を駆けてきているのでした。
「これが、颯くんの結界」
勢いよくやって来た流れは手元の札に接続すると、そのまま反対側へと引き続き伸びていきます。すごい。地上八階、地下一階の、大きな大きなコンクリート製の建物を結界で包むのは、かなり骨の折れる作業でしょう。私も早くお役に立てれば良いのですが、今はまだ、祈ることしか出来ません。颯くん。どうか、頑張って。姿の見えない颯くんに力を送るような気持ちになりました。
庁舎を囲い終えたらしい結界が、今度は上に向かってゆっくりとその範囲を広げていきます。それにつれて、なんだか結界札が熱を持ったような気がしました。温かい、というよりも、もう一段、熱い。和紙で出来た結界札がそんな風になる訳はないのですが、その熱を逃がさないようにという気持ちを込めて、しっかりと握り……と、次の瞬間。結界札が眩い光を放ち、私はぎゅっと目を瞑りました。指先がぐんと熱くなり、その熱が手の平から両腕、肩を通って、頭や胸にすごい勢いで広がっていきます。くらくらする程のエネルギーが全身に伝う中なんとか足を踏ん張りますが、結界札の熱は容赦なく次々と私の中に流れ込んで、まるで地面が波打つかのようです。
……もう、これを持っていられないかも知れない。
そう思った時、私の全身がドクリと脈を打ったような感覚に包まれました。
―――寒い。暗い。
誰かが、小さな声で語り出したのが聞こえます。それと同時に、私の頭の中に、ある光景が広がり始めました。
そこは山肌に貼り付くように広がる小さな集落の、その中でも、ひと際大きなお屋敷です。
広縁に女の子の姿が見えました。ひとり、おはじきで大人しく遊びながら、時折り庭をぼうっと眺めるように視線を泳がせます。その女の子は実のところよく出来た日本人形ではありましたが、まるで本物の子供のように大切にされてきたのでしょう。よく見れば、身につけている着物は柄合わせが少しずれていたり、縫い目が不揃いに並んでいて、おそらくお家の方が手づから拵えたものです。
庭の雑草は野放図に伸び、障子紙は陽射しに焼けて脆くなったせいかあちこちが破れ、門柱には規制線がだらりと下がっています。これは、廃墟でしょうか。
なぜこのお屋敷が廃墟になってしまったのか、家の住人はどこへ行ってしまったのか、その辺りの事情は分かりませんが、女の子は時折り思い出したように笑んでは、ひとり遊びを続けています。日が暮れ、また昇り、そうしていくつもの季節が過ぎていき、そのまま何年もの月日が経った頃、家に侵入者が現れます。
お人形は侵入者の手によって屋敷から持ち出され、竹藪で件の写真を撮られたのを最後に姿を消すことになりましたが、画像だけは鮮明に残りました。撮影者は画像をネットの掲示板にアップロードして、恐らくそのまま忘れ去ってしまったのでしょう。
―――ここは暗くて寒い。帰りたい。
悲しくて冷たい感情がどんどん流れ込んできて、心細くなってきました。
「……帰りたい」
知らず知らずのうちに言葉が口をついて出ます。帰りたい。ここは暗くて寒い。頬が冷たいと思った時には既に涙が流れていて、自覚すると悲しい気持ちが心の中で大きく大きく広がります。
シャラーー……ーン……
その時、颯くんの鈴の音が聞こえました。
それから風が凪いで、一枚の薄いフィルムがピンと張られた感触の後、空間が固定される手触りがして、結界が完成したのだとわかりました。良かった。きっとこれでお人形の画像の怪異は庁舎内だけでなんとか収まるでしょう。
ほっと胸を撫で下ろします。あのまま鈴の音が聞こえてこなかったら、今頃どうなっていたでしょうか。私は頬の涙を拭うと、事務所へと向かうことにしました。
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