梅小路翠子―1
上京して初めての一人暮らしは、日々、新しい発見の連続です。
今日の朝ごはんは、胡桃沢さんから頂いたパンです。ただパンと呼ぶのも悪い気すらする立派なパンをオーブンで温める間に、ドリップコーヒーを淹れます。実家ではだいたいほうじ茶を飲んでいましたので、ここで少しだけ都会の雰囲気を感じたりもします。
頂いたパンは、とても美味しいと評判のお店の物らしいのですが、評判が立つだけになかなか入手が難しいそうで。そちらを気前よく譲って下さったのには少し訳がありまして。
胡桃沢さんは賭け事がお好きで、お好きなだけではなく大変お強い方です。それで、ちょっとした賭けの景品としてそのお店のパンを所望していたら事あるごとに手に入ってしまうようになり、そろそろ食べ飽きてしまったのだというお話でした。私には賭け事の才能はありませんが、胡桃沢さんの鮮やかな手腕には憧れてしまうところです。
どっしりと持ち重りのするほうれん草とベーコンのキッシュも、きのこがたっぷり乗ったフォカッチャも、心地良い口溶けのミルククリームが挟まった華奢なフランスパンも、どれも大変美味しくてコーヒーがすすみました。今度、胡桃沢さんによくお礼を言っておかなくてはなりません。私が何かを持ち合わせているとも思えませんが、どこかでお返しが出来ると良いのですが。
対怪異浄化情報収集室こと浄化室が配置されている中央合同庁舎第一号館は、霞ヶ関駅B3出口からは徒歩一分の距離ですが、私は時々、銀座駅で降りて日比谷公園の中を通って出勤してみます。整然と建ち並ぶビルに広々とした道路、カラッと晴れ上がった朝の空気はなかなかに気持ちの良いものです。ジョギングの人やテニスコートを使う団体など、朝から活動的な人が多いのもこの街の特徴かもしれません。
ここに住んで思うのは、東京はよく晴れた街だということです。
私の生まれ育った北陸は日本海側に位置するため曇りがちの天気が多く、季節を問わずよく雷が鳴り、湿り気を帯びた風が頬を撫でる、そんな土地でした。されはもう「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉がある程に。冬は雪深く、白と灰色の景色に閉ざされており、春がとても待ち遠しいのです。
「でも、お部屋で過ごす時間が長いおかげで茶の湯文化が発達したり、湿度が高いおかげで“美肌の地“らしいんですよ」
「なるほどねぇ。物事は必ず多面体として存在する訳だ」
いつだったか、故郷の気候の話になった時に勧修寺先生にそんな事を言われました。
多面体、は確かにそうです。光があれば闇が、表があれば裏が存在するように。物事はすべからく多面体であります。
でも先生の場合は多面体と言うより不定形とか……いっそ、アメーバ? なんて言ったら失礼ですね。丸い銀縁眼鏡の奥でよく弓形になる切長の目は、開けっぴろげの様でいて、実は今ひとつ本心が分かりにくい部分があると、私はそう思っています。
日比谷公園はいま、秋薔薇の季節です。
綺麗に整備された花壇には様々な品種の薔薇の花が咲いて、文字通り通勤に花を添えてくれます。
広場では週末に行われる何かのイベントの設営が始まっています。こちらの公園で行なわれるイベントは大掛かりなものも多く、先月はオクトーバーフェストとやらで大変賑わっていたようでした。参加してみたいとも思いましたが、今の私には、まずは仕事が最優先でしょう。九月に入社し、二か月間の研修期間を経ての本配属。早く仕事に慣れなければなりません。
勧修寺先生や颯くんは急がなくて良いとは言ってくれます。ですが、現場で力になれない私には歯痒い気持ちばかりがあります。浄化室のお仕事は私にはまだまだ難しいことが多く、思い描いた結果を出せないことばかりですが、少しずつでもきちんと習得していきたい所です。
「よし、今日も頑張ります!」
私は声に出してみてから、さらに右手をギュッと握って脇を締めました。ガッツポーズ。たまに胡桃沢さんがしているのをお見かけしますので真似してみましたら、なんだか気合いが入ったような気がします。これは発見です。
清々しい朝の空気をもう一度、胸いっぱいに吸い込んでから、交差点を渡り始めました。
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