ほどける 2

 その日、私は途方に暮れていました。これまでは、ほどけるのが足先だったので誰の目からも隠せていましたが、その日は左手の小指がほどけ始めていたからです。朝、目が覚めて淡い桃色の糸が視界に入った時、思わずひゅっと息を飲みました。跳ね起き、あらためて指先を見るとやはりほどけています。夢ではない。どうしよう。どうしよう。そればかりが頭の中をぐるぐると駆け巡りました。

 考えた末に絹の手袋をして食卓についた私は、母に問われると「手が荒れてしまって」と答えました。品格を重んじ、梅小路家の女子たるもの容姿を美しく保たなければと、常から口を酸っぱくしている母は、納得した表情を見せました。でもこの言い訳も長くは保ちません。

 その点、父はその類の変化には無関心なものです。上の空の私に何かを熱心に説明していましたが、申し訳ないことに父の言葉は私の耳の側をただ通り過ぎただけでした。まるで無音映画の中の景色のように、味のわからない食卓を穏やかに囲みます。せめて祖母が生きているうちにこれが起きていたなら相談くらいは出来たでしょう。でも、もう祖母はいません。


 午後になると来客があり、珍しく応接間に呼ばれました。輿入れ先でも決まったものかと恐る恐る顔を出すと、そこに居たのはスーツ姿で丸いレンズの付いた銀縁眼鏡をかけた男の人と、街の若者と見紛うばかりのラフな格好をした少年と青年の間くらいの男の人でした。

 スーツを着た男性は終始にこにこと笑顔を絶やさず、癖のある長い黒髪を頭の後ろで無造作に一括りにしていました。もうひとりの方はほとんど無表情で、くるくるとカールした長めの前髪の間から時折り鋭い目つきでこちらを見るくらいです。おまけに破れたデニムの間から膝が見え隠れしています。なんだかアンバランスな二人組でした。

 なんとなく気まずくて目を逸らしながら過ごしていましたが、そうしている内に父とスーツ姿の男性の間で話が進み、私はその方達の所属する機関で働く事に決まったようでした。何でも、国の中枢に存在するけれど限られた層にしか知らされていない、特別な機関なのだそうです。

 大変驚きましたが、外に働きに出られるのは少し嬉しくもあります。居場所のない家の中で過ごすよりもずっと良いからです。

 それに、その場所で働く事ができるのは適性のある者に限られている、とも説明を受けました。梅小路家にはその適性というのがあり、何代か前にもそちらで働いていた者がいるのだそうです。今朝から父が上機嫌で話していたのはどうやらその事だったのかと、その時初めてあの弾んだ声に合点が行きました。


 父母が手続きについて聞いている間、自室に引きあげていると、先程のデニムのほうの男の人が部屋の戸を叩きました。

 私は何か怒らせるようなことをしたのでしょうか。そう思うほど機嫌の悪そうな顔をしています。この方は今後、私の先輩ということになるそうですが……少しだけ、先が思いやられる気持ちになりました。だからと言って扉を閉ざすわけにもいきません。


「……なにか、ご用でしょうか」

「手、見せてみろよ」


 驚いた私が何も言えなくなっていると、彼は扉の隙間からこちらにそっと入り込みました。言葉こそ大変ぶっきらぼうな言い方でしたが、私室の扉を閉める時に全部を閉めてしまわず、細く開けたままにしている事に気が付きましたので、きっと気遣いの出来る方なのだと思いました。私はゆっくりと左手を差し出します。

 彼は音もなくそうっと手袋を外しました。小指の先から伸びた糸を丁寧に検分して何度か頷き、それから、背後の扉を振り返りました。


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