第4回「独りぼっち その①」
黒船以上に三十郎の人生を変えた、
父・三治郎の死。
彼が父を継ぎ藻掻く最中にも、
時代は血風の動乱へと突き進んでいる。
〇
ある男がいる。
江戸の潮風を鼻にくぐらせて、大きく息を吸って、大きな口から……溜息が出た。足元に瓦が転がっている。破片を踏まぬよう、慎重に歩く。目の前には、倒壊寸前の道場が辛うじて建っている。
後に新選組局長となる近藤勇。
昨日、俗にいう安政大地震が江戸を襲い、被災して今に至る。見上げると、屋根に登った門人たちが修理をしている。如何に近藤勇といえど、今はまだ貧乏道場を切り盛りする若先生に過ぎない。
「土方さーん、そんなゆっくりやってたら終わりませんよー」
「そっちが雑すぎるんだ、もっと見栄えに気を配ってやれ」
「見栄えったって、元々ボロ道場だったじゃないですか」
「言うな」と近藤の鬼瓦のような顔がにゅっと突き出したので、門人二人はひっくり返った。三人は屋根の修理を続けた。
この地震は、実に一万人を超える死者を出した大災害となった。その中には勿論、ここまで時代や若者を牽引してきた人物も含まれている。特に水戸の藤田東湖や戸田蓬軒の死は、後の幕末とよばれる時代に大きな影を落とすことになる。
谷三十郎は、江戸の大地震の報せを聞いて溜息が出た。
また地震か、と朝から陰鬱な気持ちになる。というのも備中松山を含む西日本でも地震があった。谷家では三十郎が千三郎と父の位牌を、万太郎が母をそれぞれ担いで飛び出して、全員怪我も無く無事であった。
「あれ、万太郎はどこへ?」
「方谷先生のところですって」
「また用心棒ですか?」
「違うみたいですけれど」
この日は三人での朝食だった。兄が難しい顔で朝食を取っている隣で、千三郎は箸を持ったまま、どこか茫としている。昨夜、奇妙な夢を見たのだ。
白い部屋に、自分は座っている。というのは畳や天井、柱に到るまで全てが真白いのだ。四畳ほどのその部屋に、自分は正座している。その正面に座る見知らぬ大人が、こちらを見据えている。寝間着姿のその男は、丸顔で団子鼻をした愛嬌のある顔。顔は百姓のように真っ黒に灼け、目は鋭く燃えていた。
「坊や、歳は幾つですか」
「八つです」
「おお、七郎麿様によく似ている。お母上様を大切になさい」
それだけ言って、男はその部屋に吸い込まれるようにして消えてしまった。気がつくと、障子越しに朝日が顔の片側を照らしていた。見慣れた天井がこちらを見下ろしている。
あの男は誰だったのだろう。
と考え事をする千三郎をよそに、二人は藤田東湖の話で盛り上がっていた。普段は温和な亀が珍しく語気を強めている。東湖は被災した折、老いた母を助けに倒壊寸前の屋敷へ戻った。そして母を投げ出し、自らは圧死。この親孝行は余りにも有名、という話なのだが。
「馬鹿です。母を助けようとして自分が死ぬなんて。親不孝です。あなた達は母のことを置いて、まず自分達だけで逃げるのですよ」
こう言ってきかない。亀はこの時だけでなく、生涯にわたって東湖の「親孝行」を讃えることはなかった。よく笑う母がこれほどに豹変するので、三兄弟も自ずと、東湖に限らず地震の話はしなくなった。
「んなことしたら父上が化けて出ますよ」
そう言った三十郎の表情が、どこか三治郎に似ていた。十月なので、白菜の漬物が膳の上に並んでいる。三十郎は作法に滅法気をつけながらそれを食べている。谷家の当主として、この男はすこぶる張り切っている。
しかし今回は、この男からはちょっと離れて、こちらを主役に添えて物語を進めて行こうと思う。
(……夢のあの人は、誰だったんだろう)
谷千三郎。
幕末において、彼ほど数奇な生涯を送った者はそうはいまい。
今は、ただの谷家の末っ子である。
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