第1回「三十郎がゆく その⑤」

 中庭に、御影石の水鉢が置かれている。


 その中で、朝日を照り返しながらキラキラと光るものがある。糸くずのように小さなメダカたちが、小さな鰭を懸命に使って泳いでいる。

 三治郎が知り合いからもらい受けたものだったが、今ではすっかり三十郎が彼らの世話役である。


 三十郎はこのメダカたちを見ると、いつも心が和んだ。彼らはこの小さな鉢の中で産まれ、育ち、死んでいく。砂利と水草だけの小ぢんまりとした世界の中で、彼らはくり返し生を営んでゆく。


「お前たちは気楽でいいなあ」と、三十郎は餌を撒いた。針の先のような口を水面に近づけて、彼らが餌を啄んでゆく。

 不意に、天井が抜けるような泣き声が耳に突っ込んできた。穏やかな水面は波立ち、メダカたちはみな水草へ隠れてしまった。


「こんな変なこと、鉢の中じゃ起こらないもんなあ」


 泣きじゃくる赤ん坊に四苦八苦する父。母がすっ飛んできて、慣れた手つきでその子をあやす。不思議なことに母がやると、赤ん坊はすぐに泣き止んで、眠ってしまうのだ。


「高さかのう、速さかのう」


「どちらでもありませんよ。赤子はこうして、ゆっくり歩くと泣き止むのです」


「なるほど、もう一度やらせてくれ! こうか、こうか?」


「旦那様、摺足になっております」


 あの夜以来、両親はこの調子である。

 山田方谷が連れて来たこの赤ん坊。どうやら由緒正しい武家の子で、しかし母親の身分が卑しい、いわゆる御落胤。

 仔細あって方谷には育てることができない。どうしようかと困っていたところ、現れたのは熊田恰。彼は「心当りがあります!」と、谷家をすすめた。


「面白くない!」


 中庭で万太郎が槍の素振りをしている。縁側の三十郎は、半ば独り言のつもりで声を荒げた。その声で、すぐ隣の水鉢のメダカがまた逃げた。


「何が」


「何も聞いてないこと!」


「そりゃ、おおっぴらに言えんだろ」


「お前、あの赤ん坊のこと知ってたのか!」


「うちに来るとは思わなかった。でも用心棒をやる時に事情は聞いた」


「なぜ俺に教えん!」


 万太郎は無視して素振りを続ける。思えば見聞きしたことを知らせ合うほど、仲は良くなかった。


「恰殿だって、最初はあんなに方谷を斬ると息巻いてたのに」


「どうやらあの後、一人で討ち入ったらしい。そこで話して、心変わりして、今じゃああして方谷先生の片腕になっている」


「だから、そういうことをなぜ俺に教えん!」


 面白くない。実に面白くない。

 万太郎も恰も山田方谷と出会い、彼に惚れ込んでいる。しかもやれ荒れ寺でばったり出会っただの、討ち入ったところ言葉を交わして改心しただの、まるで講談ではないか。しかし自分は、そうしたことを後から聞くばかり。一度としてその舞台に上がったことはない。

 水鉢のメダカが、狭い世界を泳いでいる。池のほとりに咲く睡蓮のことも、川が海へとつながることも知らぬまま、生き続けている。

 鬱屈とした三十郎はある雨の日、考えついた。


 この赤ん坊を、どこかよそに預けてしまおう。


 ちょうど父も母も出払っていた。厄介な万太郎は、恰と共に方谷の塾の手伝いに行っている。皮肉なことだ。

 薄暗い屋敷の中で、三十郎は眠りこける赤ん坊をのぞきこんだ。呑気に眠っている餅のような頬をつっついた。少し顔を顰めた。


「お前は気楽でいいなあ」


 いよいよ手を伸ばした時、途端に赤ん坊は泣きじゃくった。これまでにないほど泣いた。三十郎はその時、はじめて赤ん坊を抱き上げた。意外に重い。赤ん坊は泣き止まない。

 母がやっていたように、揺すったり童歌を口ずさんでも、泣き止まない。ふと思い出す。


「ゆっくり歩く」


 三十郎は歩いた。父のような摺足で、母の言葉を反芻させながら、一人で小さな命を抱きかかえ、ゆっくりと歩いた。


「ゆっくり、ゆっくり……」


 気づけば赤ん坊は泣き止んでいた。

 三十郎は自分の腕で気楽に眠るその子を見て、笑ってしまった。

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