第1回「三十郎がゆく その④」
谷家は由緒正しい武家の血筋だが、裕福な家というわけではなかった。
そのため夜は油や蝋燭を無駄にせぬよう、皆で早くに寝るのである。
しかしこの日は違った。
細い蝋燭に照らされる山田方谷の前で、一家四人が揃って並んでいる。三治郎は寝間着姿で出てきてしまったことを、何度も詫びた。
三十郎は改めて、山田方谷という男をみた。風聞では弁が立つのを良いことに、身分もわきまえず昇進した小物とあったが、それは全くの誤りであったらしい。
一夜の用心棒を万太郎が快く引き受けてくれたこと。また朝まで一睡もせず門の前に立っていたこと。仕事が済めば謝礼も求めず引き上げたこと。これらの謝辞を実に低姿勢に述べた。まるで侍に命を救ってもらった百姓のような喜びようである。
「まことにしっかり教育をされておられる」
「いやそんな、二人そろって阿呆でございますから……」
「しかし、どうやら藩内で立場の悪い私をかばったことで、ご迷惑をおかけしたようで」
「とんでもございません! そのような口を叩く者は、少なくとも我が家にはおりませぬぞ」
万太郎が父から視線をそらしてため息をついた。三十郎はというと、父の後ろで「その通りでございます!」と蛙のように平伏していた。
「そんな谷家の皆さんを頼って、頼み事がございます」
「なんなりと! 不肖谷三治郎供行、山田殿のためなら何でも致す所存!」
「不肖谷三十郎供国、右に同じ!」
「頼もしい。しかし、事が事ですので、ひょっとすると少し……いや、かなりご迷惑になるやも知れません」
「まさか! そのような不埒者がおりましたら、殿もお褒めくださった直心流で成敗してくれます!」
「右に同じ!」
万太郎はそそくさと部屋を出て行った。谷万太郎、このとき十三歳。父と兄のああした姿を見るのは好きではない。夜風にあたろうと表へ出ると、ふと一人の男が立っている。背の高い、隻眼の男である
「……熊田殿」
「山田方谷殿がここへ来ているだろう。通せ」
珍しく声を潜めたその様子は、尋常のものではなかった。
腰にやった手が空で刀を探す。しまった、寝間着のままだ。熊田はゆっくりとこちらへ歩んでくる。
両雄の間合いが狭まる。万太郎は無力に腕を広げ、門に立ちふさがった。刀も槍も無いのだ。こうするほかに無い。
熊田はゆっくりとこちらへ歩んでくる。
〇
亀が大きなあくびをした。いつまでこの男たちは、山田方谷にぺこぺこやっているのだろう。自分も居なきゃダメなのだろうか。
うつらうつらとしていると、何やら足音が聞えた。
万太郎が戻ったのかと振り向くと、熊田恰が神妙な顔で立っていた。亡き父親譲りのツンと吊り上がった虎のような目は、真っすぐに山田方谷を捉えている。
三十郎が兎のように飛び出して弁解しようとしたものの、袖の埃を払うようにいなされて壁に背をぶつけてしまった。
「方谷殿」
熊田は、物音一つ立てずに歩む。風が裏山の木々を揺らす音が、大きく響いている。熊田は何やら背負った大荷物を慎重に下ろして、方谷の下へ跪いた。
「よ~~~やっと寝ましたぞ、方谷殿!」
「助かりました、熊田君。それにしても、えらく遅かったですね」
「勘弁してくださいよお! 方谷殿がさっさと行ってしまったんじゃないですか!」
「こらこら、大きな声を出すとまた泣き出しますよ」
「そうでした!」
方谷がこちらを手招きする。谷夫妻は顔を見合わせて、そろそろと熊田の腕の中をのぞきこんだ。いつの間にやら、三十郎と万太郎もいる。
一家全員で釘付けになった視線の先に、その子はいた。熊田の腕の中で、桃のように赤く頬を染めて、深紫のおくるみの中で静かに眠っている。
「この子を皆さんに育てていただきたいのです」
雀の声がする。空が藍色になっている。
朝が近づいている。
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