第1回「三十郎がゆく その③」

 三治郎は煙管をゆっくり吸って、ちらりとこちらに目をやった。


 三十郎はというと、父が何を言い出すのかなんとなくわかっていた。


「万太郎には悪いことをした」


 谷家は由緒正しい旗奉行の家柄。とはいっても、役料百二十石は、この備中松山では何とも言えない中流士族である。結果、周囲からの視線や世間体には、敏感にならざるを得なかった。


「仕方ないと思いますよ? 熊田殿が方谷憎し、と言えば逆らえません」


 三十郎と共に山田方谷暗殺を企んだ熊田恰は、藩の年寄役・熊田武兵衛むへえの子である。先年に武兵衛が没してからは、その若い情熱があのような形で暴走している。


 山田方谷が藩の政に関わるのを嫌悪しているのは、主に熊田のような若い藩士たちである。皆、方谷が一足飛びに出世していくのが面白くないのだ。


 三治郎にしてみれば、もうすぐ家督を譲ろうと考えている三十郎の出世乃至は谷家の安泰が、あの過激な熱血漢の手にゆだねられていると思うと胃が痛む。結果として、珍しく万太郎に声を荒げてしまった。


「此度のことで、妙な噂が立たねば良いがのう。谷家は熊田家に逆らって方谷に味方した、とか……」


「それは心配ご無用! この三十郎と熊田恰殿とは、昵懇じっこんの間柄!」


「昵懇というか、腰巾着になっていると聞くぞ」


「よもや!」


 笑ったものの、三十郎も引っかかっていることがある。噂が独り歩きした結果、あの夜の自分達のような輩がこの屋敷へ攻め寄せるのではないか。考えただけでも身の毛がよだつ。

 何より、恰が激怒してやってくるのが恐ろしい。あの男とて剣術師範を父に持ち、撃剣家として知られた男だ。かつて剣術修行中に、相手の竹刀が目を突いて隻眼となった。しかしその試合ですら相手を打ち負かしたというから、とんでもない。


 さっさと自分が腹を切って済めばまだ良い。だがもし、その時恰と万太郎が相対してしまえば大ごとだ。翌日には藩内が蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。


 その晩、三十郎はこっそり起き出して、屋敷の番をすることにした。生来、生真面目な男なのである。番をするときには決まって、短刀を懐に仕舞いこんでいた。潔く腹を切るためである。


 とは申せ、刺客もそうすぐには現れまい。そう楽観して、三十郎は大きなあくびをした。それが己の甘さであると気づいたのは、夜風に紛れた怪しい気配を彼の鼻が感じ取った時である。垣根の向こう側から、こちらを伺う人物がある。


「何奴」


 応えはない。しかし、逃げることもしない。相変わらずこちらを伺っているのが不気味である。

 その相手は、笠を深く被った武士風の小柄な男。背丈や身体つきから、恰でないことに先ずは安堵した。というか恰なら、黙ってこちらを伺うようなことはしない。古来の武士のように名乗りを上げたことだろう。


 では、この男は誰だ。

 刺客にしてはどうにも奇妙な佇まい。


「こんな夜更けに何をしている」


 男が喋った。かなり年上のようである。激情して人を殺さんとする刺客の声ではない。


「番だ」


「何を守っている」


「そういうワケではない。馬鹿な弟の尻拭いだ」


「ほう、御兄弟が何をなされた」


田舎いなかっぺ方谷の用心棒など引き受けやがった。おかげで兄の俺が、方谷憎しの輩が来ぬようこうして番をしておる」


 そういうと男が笑った。思わずビクついた三十郎に、彼は笠を取ってその素顔を見せた。白髪混じりの頭を上品に結いあげて、上士のご隠居の風体でもあり、どこかの村の古老のような温かみもある。


「いやはや、ここは律儀者の家のようだ」


「お主、一体誰なのだ?」


 老人は丁寧に一礼をして、三十郎を見た。垂れ下がった瞼の奥で、瞳が宝玉のように光っている。


「田舎っぺの方谷。山田方谷でございます」

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