第1回「三十郎がゆく その②」

 備中松山で暮らす谷三治郎さんじろうは、「生まれてから一度もこの国を出たことが無い」というのが自慢だった。


 物見遊山などには一切関心を抱かず、水車のように同じ日々を繰り返していた。

 谷家は藩主板倉家の旗奉行を務める由緒正しい家柄で、当主の三治郎は剣の腕を見込まれて剣術師範も兼任していた。

 と書けば聞こえは良いが、本人自体は痩せ型で、重たいまぶたと細い目をした、前歯の大きな色白。武家というより、官僚という言葉の似合う男だ。


 奥方の亀は丸顔で、垂れ下がった目でにこにこ笑うのが、まるでお地蔵様のようだった。いつ見てもこの調子の笑顔で、わがままを言ったことは一度だってない。

 朝、二人は同じ時に目を醒まして、無駄のない動きで一日の支度をする。いつもと変わらない朝。違っていたのは、嫡男の三十郎がどうにも顔色の優れないことである。


 三十郎は焦っていた。


 昨日の山田方谷ほうこく襲撃の際、用心棒を見て彼は一目散に逃げだした。というのも、月明かりに照らされたその男を、三十郎は誰よりよく知っていたからである。

 今、父親似の重たい瞼でやって来た、この弟・万太郎まんたろう

 どういう訳か、彼は昨夜山田方谷の屋敷を守っていた。三十郎は、一度としてこの仏頂面の弟に稽古で勝ったことがない。


 ……顔、見られたか?


 三十郎が何より心配なのはこれである。弟はというと、何も言わない。こちらを見もしない。黙って飯をかき込んでいる。


「昨晩屋敷を抜け出したでしょう?」


 母の言葉に思わずむせた。弁明しようと慌てて頭を回したが、母の視線は万太郎に向いている。

 万太郎は何でもないように「用心棒を頼まれました」と言った。

 したところ、父が「ほう」と明るい声をあげる。


「流石に日ごろから、槍の鍛練を怠らぬだけあるではないか」


「暇なだけです、次男坊ですから」


「おいお前たち、あの万太郎がようやっと謙遜を憶えたぞ」


 冬の陽射しを浴びる屋根瓦から、暖かな笑い声が抜けていった。三十郎もとりあえず、引きつった顔で作り笑いをした。


「で、用心棒ということは、刺客が来たのか?」


「二人来ました。月が出たものですから、刀が白く照って眩しかったです。それと同時に、抜身でこちらに迫って来るのかと気が昂りました」


「臨場感のある話し方をするな、お前は……」


「なんだかこちらまでゾクゾクしてきますね。ねえ三十郎」


「そ、そうですね、母上」


 確かに、ゾクゾクしっぱなしである。

 まるで講談のように息子の話に聞き入る谷夫妻。しかし、賊は万太郎を見るなり二人して逃げ出したというので、少しがっかりした。万太郎が無事であったということを考えれば、少しホッともしたが。


「それにしても、用心棒を見て逃げ出すとは肝の小さい賊だなあ」


「本当に。親の顔が見てみたいですわね」


「私はそうは思わないなあ! 相手の実力をしかと見定めて、退くときは退く! 武士とはそういうことも出来なきゃいけないんじゃないかなあ!」


「いや三十郎、武士はそもそも闇に紛れて屋敷を襲ったりせんのだ」


「どうかなあ! 忠臣蔵だって、吉良の屋敷を襲撃したのは夜中だったじゃあないですか! 志と戦い方は関わりないと思いますよ!」


 三十郎はいつもよりおかわりをした。ほとんどやけ食いである。妙に賊の肩を持つ我が子に首をかしげながら、母はそれに応える。


「何をムキになっとるんだ……そうだ万太郎。いよいよ聞くが、誰の用心棒をしておったのだ」


 父はそわそわと身を乗り出して、万太郎の言葉を待つ。もしや名のある武家では、ひょっとすると藩主板倉様の御殿を……。にまにまする父に、万太郎は仏頂面で味噌汁を飲み干し、言った。


「山田方谷殿のお屋敷です」


 雲一つない空めがけて、三治郎の怒号が響き渡った。

 瓦が一枚ずり落ちて、ガシャンと割れた。


 〇


 不貞腐れて寝転がる弟の背中に、三十郎は意地悪な説教をしていた。


「山田殿は評判が良くない。『百姓上がり』と、大体の武家は目の仇にしている。それに肩入れしたことが知られれば、谷家も相応の誹りを受けることになるのだぞ」


 万太郎は黙っている。三十郎はというと、先ほどの冷え冷えとした心が嘘のようにスッキリしている。


「大体、どうしてお前が山田殿と知り合ったのだ」


「……裏山の荒寺で、考え事をされてた。話してみると中々、道理のわかるいい奴だった」


「俺は知らんぞ、知らんからな。熊田あたか殿なんか、特に山田殿のことにうるさいんだぞ。次の修練で必ず狙われるからな。また泣かされても知らんぞ、昔みたいに」


 万太郎が勢いよく立ち上がる。少しビクついたが、虚勢を張ってその背中を見つめた。そして何やら取り出して、兄の目の前に放り投げた。


 あの時失くした覆面が横たわっている。


 昔、必死についた嘘がバレた時の父の顔が浮かんだ。期待していたよりも、目の前の嫡男が矮小な人間だと見抜き、呆れ果てるあの顔。

 同じ顔を万太郎がしていた。

 フン、と鼻で息をつき、万太郎は部屋を出る。


「バカにするな!」


 思わず怒鳴った。何か言わねば、自分は永久にこの弟に見下されたまま生き続ける気がした。


「お前のそれは気まぐれだ。俺の方が、お前よりずっと谷家のことを考えているんだ!」


「まったくだな」と、万太郎は去った。三十郎の手元には、覆面だけが残った。「ちきしょう!」と投げつけた覆面が、ふわりと風に乗って己の顔にべしゃりと張り付いた。

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