第2回「でんでん虫 その③」
この男。
後に兄とともに新選組の隊士となる男・谷万太郎。
卑屈で女々しい兄は、新しくきた赤ん坊に付きっ切り。方谷の用心棒のお仕事も、熊田恰が彼の弟子となってパッタリ無くなって、また退屈な日々。
家にいると、息がつまってしょうがない。正月に買い替えた下駄を履いて、雪を被った山々を見上げる谷万太郎。
とろとろと虚ろに流れる川。そこを飛ぶ一羽の燕を目にして、どことなく淋し気な谷万太郎。
家を背負わんと躍起になって蝸牛のようになっている兄。とは違い、昼間から酒屋にだって入れちゃう谷万太郎。
酒屋の娘とは顔なじみだ。万太郎が来るとどこからとなくパタパタと走ってきて、武家の面白くない愚痴を酷く面白がる、妙な女だった。
「今日はどんな面白い話です?」
「何にも面白くない」
「一応、話してみたらいかがでしょう。私が聞いたら面白いかもしれませんよ」
「お前、面白がってるだろ」
「そこそこには」
娘は盆で口元を隠しながら、猫のような目で笑っている。万太郎はいつものムスッとした顔のまま、堰を切ったように喋りだした。何を喋ったのかは、改めて書くことでもない。ただ旧習に囚われる山国育ちの次男坊が、家の中でも外でも蔑ろにされているのだ。その十三歳の身体の中で、抑えつけられた血潮が暴れている。それは幼い己であり、それに気づいている己である。
ひとしきり話し終えて、娘は頬杖をついて澄ましていた。
「なんだか谷様、意外に子供」
「うるさい」
「でも私は、谷様は頼りにされてると思いますよ。今だって兄君が慌てで心配して、ご城下を走り回っているかも」
「兄貴もそんな子供じゃない」と言おうとした万太郎が、口を開けたまま黙ってしまったのは、今まさに大慌てで砂埃まみれの三十郎が暖簾をくぐってやって来たからである。
「万太郎、探したぞ!」
見れば三十郎は稽古着で、顔に大きな痣があった。万太郎はそのまぬけ面を、以前も見たことがあった。
「代役はやらない」
「頼む、谷三十郎一生のお願いだ、今度だけ頼む」
「兄貴の『一生』は耳にタコだ」
三十郎は稽古で大敗すると、決まって「今朝は調子が悪かった、支度をしてくる」と言い残して道場を去る。そして万太郎に防具をつけさせて、自分の代わりに戦ってもらうのだ。
「千三郎が見たらどう思うだろうな」
「千には見せん! というか、千が大きくなる頃には、俺だって少しは強くなっておるわ!」
二人は言い合いながらも、支度を整え、さっさと酒屋を出て、城へ向かって行った。
娘は暖簾からひょっこり首を出して、その様子を覗いていた。遠目だが、万太郎が満足げなことが、後ろ姿でわかる。槍の鍛練に励む万太郎にとって、城中の腕自慢と試合をできる好機は滅多にないゆえか。はたまた。
「ほんと子供」
娘は店へと引っ込んで、それきり仕込みに行ってしまった。
三十郎は、めっぽう強い修行者が来たのだと、早口で言う。万太郎はなんだかゾクゾクと武者震いがした。
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