第2回「でんでん虫 その②」
賑やかな声は、山田方谷の屋敷にも障子を貫いて届いていた。
その声をかき消すのは、廊下を力強く歩く足音。その主熊田恰は、餅を積み上げた盆を手にしていた。
「先生、お呼びですか! 外で餅を焼いてきました、食ってください!」
「ありがとう、後でいただきますよ」
方谷は今、人生最大の大仕事の真っ最中である。
老齢の藩主の隠居に伴い、新しい藩主が松山へやってくる。聡明叡智なその男は、この小さく閉鎖的な山国の車を押し進め、澱んだ水を洗い流そうとしている。俗にいう『藩政改革』である。その舵取りに大抜擢されたのが、この山国で最も非凡な田舎っぺ、山田方谷であった。
「君を呼んだのは、兵卒のことを話したいからです」
「それもあのお方からの御命令ですか?」
「ええ、熱心な方です。ときに熊田君、武士としての君の心構えを聞かせてください」
それまで餅を手に弛んでいた熊田の顔が引き締まる。大きく胸を張って潰れた片目を撫でた。
「死を恐れんことです」
「誰かに殺されるのですか?」
「そりゃあ……敵、です」
「敵とは何です。誰のことですか」
熊田は天井を見上げて、黙ってしまった。
既に西国では、いずれ来るであろう西洋諸国に備える藩が現れはじめている。西洋式の軍備を整え、藩士たちの編成もそれに倣う。
方谷はそれをこの国で実現しようとしている。したいのだが、如何せん四方を山に囲まれたここでは、人々の心は外界に向いていない。熊田恰もそうである。
「なんにせよ、兵卒の編成を見直したいのです」
「承知! 当家は剣も槍も名人揃い、戦になれば真っ先に役立ちます」
「心強い。この後、稽古の様子を観たいのですが」
「手配いたします! ちょうど他国からの修行者が我が藩に来ております、備中武者の格の違いをご覧に入れましょう!」
ひとしきりを話し終えた方谷は、時に、と赤子の様子を訊ねた。熊田は餅を口いっぱいに頬張ると、印半纏で赤ん坊を背負う三十郎の後ろ姿を浮かべる。
「元気そうです! あの家は、頭が固いが義理も固いのです!」
方谷の脳裏に、槍を仁王のように突きたてて、門前から岩のように動かぬ青年の背が浮かんだ。彼は日が昇ると、頭を下げて詫びた。汚れた覆面を取り出して、これは自分の兄の物なのだという。
「兄貴を許してやってください」
それ以上の弁明はしなかった。口下手な子のようだ。
同時に、昨日の刺客は門の前に立つ弟を見て、踵を返したのだと方谷は気づいた。いい兄弟だ。厚い雲の隙間から、奇跡のような朝日が差し込んだような、そんな気がした。
「なるほど、頭も義理も」
「ねね、先生! ところであの家に託したあの子、結局誰の御落胤なんです? こっそり俺にだけ、教えてくださいよ」
「忘れましょう。あの家に末っ子が産れた、それでいいじゃありませんか」
方谷は手元の餅を二つにちぎって、口へと抛った。小正月の和かな陽射しが、文机の新しき藩主からの書状を照らしていた。
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