第2回「でんでん虫 その⑤」

 すれ違いざまに、お互いに一閃を見舞う。


 今一槍と振り返るも、手負いの獣のような足運び。一歩か二歩よろよろと向かうものの、遂には力尽きてその場に倒れてしまった。


「それまで。勝者、渡邊昇!」


 長崎弁で剣術がめっぽう強い大男、渡邊昇。彼は目の前で倒れる男を前に、ある奇妙な違和感を抱いていた。この男の槍には、型に囚われない奔放さがあった。血筋の良さに胡坐をかく他の者たちとは、明らかに違っていたのだ。


 駆け寄った熊田恰は、ひっくり返る谷の防具を脱がせてやる。そして面金を外した時、恰は余りの衝撃に大声を上げた。


「お、お前は……」


「…………どうも」


「三十郎! ぼこぼこにされ過ぎて、顔がまるで別人じゃないかー!」


 恰の背中で万太郎が気を失ったのは、渡邊の剣があまりに鋭かったからか、はたまた……。


 その夜、渡邊昇の宿舎に訪問客があった。見れば昼間に立ち会った藩の侍たちである。先頭の隻眼の男は、是非会わせたい人があると言ってきかなかった。嫌々ながら会ってみると、相手は山田方谷であった。

 方谷は座敷へ上がるなり、渡邊に頭を下げて礼を述べた。


「本日はありがとうございました。おかげ様で色々と、武芸のことで気づくところがありました」


「失礼ながら山田殿。備中聖人、小蕃山とは呼ばれても、貴殿は元は百姓。武芸についてはからっきしでしょうから申し上げます。この藩の練度は極めて低い。中には中々遣う者もおりますが、あまりに狭い世界に生きすぎている!」


 いきり立つ熊田を、谷兄弟が宥めた。これ以上の屈辱はない。

 方谷はそれを受けて、口を開いた。


「ええ、私も全く同感です」


 三人はズッコケた。


「さらに新しい藩主様の悩みの種です」


 益々三人はズッコケた。


「軍制改革の為には洋式部隊を編成するのが一番なのですが、刀と槍が主体の当家ではそれは難しい。その上で、お武家の方々は視野も狭く、頭も固い。私も苦労しております」


「世俗と隔離された山国というのは、悲しい所ですな。江戸では異国船の来航も増え、西洋式の大砲を鋳造した者もあると言うのに」


「もしやその者とは……松代の佐久間では?」


「なんと! そうです、佐久間象山という学者です!」


「やはり。いやはや私も負けていられませんねえ」


 山田方谷と渡邊昇。二人の人生がこの後交わることは無いが、どちらも幕末に名を残す風雲児たちである。この二人の会話を、谷三十郎は聞いている。だが、全くわかっていない。異国船だの大砲だの佐久間ナニガシだの、この備中松山でそんなことを心配してどうするのだ、と楽観していた。


 川でとれた鮎の塩焼きが運ばれてくる。清い川を持つ松山は、鮎の名所である。冬で身が締まっており、一口ひょいと食べるだけで米がすすむ。この鮎はこんなに美味しいのに、この人たちはこの国の何が不満なのだろう。

 渡邊は鮎を口にするも「さびなか」と眉をひそめ、宿の者に塩を持ってくるように言った。こういう姿勢も気に入らない。こんどは地酒が運ばれてきた。今日は飲んでしまおう、そう思った。


「山田殿、貴殿は日ノ本そのものを変えることができるお人です。こんなでんでん侍だらけの山国で、燻っているようなお人じゃない」


「でんでん侍?」


「備中松山の侍たちです! 変化に対応できず鈍重で、家だのなんだの見栄っぱりな殻を背負いこんだ、でんでん侍ですよ。そんな奴らの為に、貴殿の才覚を無駄にすることはない」


「渡邊殿、あなたはその腰の刀で、人を斬ったことがおありですか」


 不意な問いだが、渡邊は冷静にうなずいた。酒でほんのり赤くなった顔で、目玉が二つ炯々としている。


「その時、手入れはしましたか」


「ええ、そりゃあ」


「何故」


「ナゼ? なぜってそりゃ、錆びつくからでしょう」


「さっさと捨てて買い替えたらよろしいじゃありませんか」


「何をバカな、これは俺の誇りです」


 恰はこっそり万太郎に顔を近づけ、出たぞ、と笑った。方谷との禅問答のようなやり取りは、彼と話す皆が一度は喰らっている。刀を持たぬ方谷の連撃である。


「そう。物は手入れをしなくてはなりません。それに誇りがあるならば、中々捨て去るなどできません」


「……」


「そして貴殿の誇りがその刀であるように、私の誇りはこれなのです」


 彼は鮎の身を持ち上げた。それを口に運んで、満足そうに笑っている。渡邊はいかにも居心地が悪い風な顔をして、大きな鮎の焦げ目を見つめていた。

 方谷は、渡邊のように諸国を旅したことがある。その上でこの国に根を張る方谷にとって、渡邊は底の浅い子供に映ったことだろう。これが剣術の試合であれば、方谷に軍配が上がっていた。


 と、その時である。谷三十郎が何やらゆらりと立ち上がった。小さく微笑みを浮かべて、意気消沈する渡邊の肩に手をやった。まるで拗ねた弟に手を差し伸べるようだった。

 三十郎はすう、と息を吸うと、言った。


「もう勘弁ならんぞ糞バカタレがあ!」


 空気が音を立ててぶち壊れた。

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