第2回「でんでん虫 その⑥」
「もう勘弁ならんぞ糞バカタレがあ!」
酔っている。完全に酔っぱらっている。方谷はもちろん、恰も万太郎も泥酔した三十郎を見るのは初めてである。
「おいワタナベなにがし! お主、さっきから聞いて居ればネチネチネチネチ私の国を侮辱しおって、許せん! 私と勝負せえ!」
「いや、谷三十郎殿、だったか? お前とは昼に勝負したではないか」
「なんじゃその言いぐさは、さてはびびっとるな、ナメクジ侍!」
「な、何い⁉」
「偉そうなことをべらべらべらべら喋っておるが、結局お主、ふらふらして背負う物もない根無し草じゃろうが! 私らがでんでん侍なら、お前はナメクジ侍じゃ!」
「黙って聞いとりゃ……表に出ろでんでん!」
「何が、黙って聞いとりゃ、じゃ! お主が黙っておれば斯様なことにはなっておらんわ!」
二人は宿場を飛び出して、葦の茂る川辺へと駆けた。宿場の三人が追い付く頃には、既に二人は剣吞ながら抜刀して、睨み合っているところであった。
「俺を嘲笑ったこと、謝れば許してやる」
渡邊が自慢の剛腕を振り回しながら言う。三十郎は笑い飛ばした。
「笑かすな! 先に喧嘩を売った方が、ごめんなさい、とするのだ。うちの弟でもわかる理屈だ!」
「兄貴、俺のことバカにしてんのか」
「千三郎! 千三郎のこと!」
両者は弧を描きながら、徐々に間合いを詰めてゆく。渡邊はふと、三十郎が昼間とは足運びが違うことに気がついた。違うというか、全く別人のようだ。この足運びは、昼間に幾人も薙ぎ倒した。型に忠実で、相手の出方を伺いながら、自分からは滅多に攻めてこない。
さては、昼間のは影武者か。
渡邊は呆れ果てたが、同時に慈悲の心持にもなっていた。この男を身内の前で叩きのめすことで、彼は目が覚めるかもしれない。己の狭量さを初めて目の当たりにするかもしれない。
安心しろ、斬りはせん。
渡邊は上段に構えて、奥歯をギュッと食いしばる。月夜に雄叫びが響いた。二つの影が、いよいよぶつかる。
ゴキン。
背を向けながら、技を繰り出し終えた二人。片方が力なく倒れた。斬られてはいない。うずくまって唸っている。
「き、貴様……卑怯な……」
倒れていたのは、渡邊昇の方だった。谷三十郎は、月を背後に振り返り、酒でほんのり赤らんだ顔で渡邊を見下ろしていた。
「お主ごときに我が家伝来の名刀は使わん。峰打ちにも値せん」
「だからって、おま、お前……武士がこんな……」
三十郎は擦れ違いざまに、渡邊の目を狙って塩を投げつけていた。宿から持って来ていたのである。それによって目を潰した隙を狙って、相手の股を蹴り上げたのだ。剛健な渡邊でも鍛えられない、男という生物の弱点。それが股間である。
「た、谷は酔剣の遣い手だったのか……!」
「熊田殿、あれ剣使ってませんよ」
その時である、人形の糸が切れたように三十郎がふらついた。二人は葦をざわざわとかき分けて、その肩を抱いた。寝てしまったようである。
「見たか万太郎、兄貴は悪者を成敗してやったぞ」
もはや半分寝言のような口調である。だが万太郎も少しだけ、すっとしている。そしてこのだらしない寝顔が、今までのどんな兄の姿よりも恰好良く映った。
「ああ。だが兄貴、あんなやり方じゃ道理に合わんと父上が怒るぜ」
「怒られるものか! ナメクジには塩! 道理に則ったやり方である!」
うずくまる渡邊の腰を、山田方谷が摩った。地獄の底から響くような声で「かたじけない」と捻りだされ、思わず方谷は笑った。
「今度のことは、お互いに反省せねばなりませんね。私たちはこの国の方々、いや……でんでん侍たちを侮りすぎていたようです」
「俺は、俺はあんなのが侍なんて認めませんよ……!」
「彼らの郷里を愛する心はとても強い。その気持ちはいずれ、国を愛する心に繋がる。いつかこの日ノ本を大きく動かす者が、彼らの中から出て来るかもしれませんね」
「あーた、結構人の話聞かんとね……」
方谷は想像した。いつの日か、この国にやってくるであろう異国の者たちを。ひょっとすると、国同士の戦になるやもしれない。
蒙古襲来以来の、異国との戦。
その時、あの士が異国の者に塩を投げつけ、金的を蹴り上げるのかもしれない。
そう思うと、なんだか益々笑えてしまった。
「ところで渡邊君、異人も股を蹴り上げると、君のようにうずくまるのでしょうか。というか、体のつくりは同じなのでしょうか?」
「知りませんがな……」
渡邊昇は二度と谷三十郎と言う男に会いたくないと思っていた。どう考えてもわかり合えないと確信していた。
皮肉なことに、二人はこの時地球上の誰よりも同じことを考え、分かり合ってしまっていた。
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