第8回「心のこり その⑤」


「どうしたらいいんでしょうねえ⁉」


 いや、今はこっちが教わる立場なんですけど、とは言えない。

 この男は人に教えを乞うたことが無いのだろうか。それもこの秀才さゆえなのだろうか。三十郎は狼狽えながら「とりあえず、座りましょうか」と言った。気圧されて思わず敬語になっている。


「えっとつまり、久坂殿は無礼な返書を貰って、悶々としているわけですよね」


「そうですが⁉」


「そういうことでしたら、この谷三十郎にお任せください! とっておきの方法がございますよ!」


「さっさと教えてくださいよ!」


「まずですね、吉田寅次郎にもう一度お手紙を書くんですよ。その内容は、ありがとうございました、と。先生の言説は一々御尤です、と。私も大変勉強させていただきました、と」


 つまりは謝礼を述べ、受け入れた姿勢だけを見せろということだ。

 なんとも谷三十郎らしい処世術である。


「なるほど……逆に謝礼を……」


「そうそう! さすれば丸くおさまりますよ」


「一々御尤、と……」


「ですです!」


 久坂は鎮火したような様子で、ゆっくりと座り込んだ。

 突如として茶屋におとずれた静けさ。

 皆は固唾をのんで久坂の一挙一動を見守った。

 久坂はゆったりと団子に手を伸ばし、口に運んだ。

 もぐ、もぐ、と咀嚼する。

 萩焼の湯呑に手を伸ばし、ぐ、ぐ、とそれを飲み干した。


「ふう」


 次の瞬間、茶屋が倒壊するほどの轟雷のような声が萩の城下に響いた。



「んな情けない真似ができるかああああああああああああッ!」



 久坂は倒壊した茶屋の屋根だった箇所に登り、木刀を天に掲げた。


「そうだ、今から帰って反論の返事を書いちゃるぞ! 男児たるもの、売られた喧嘩はとことん買う! 待ってろ、吉田寅次郎‼」


 ひとしきり叫び終えると、砂埃を巻き上げながら走り去っていった。

 三兄弟は顔を見合わせた。


「……変な人だったなあ」


「ああ、変な人だった」


「変な人でした」


 しかし、と三十郎は彼が走り去った方を見つめる。


「立派な人だ。私とさほど変わらない、なんなら年下に見えたが、世情に通じ国を憂いている。ああいう人を『志士』というんだろうな」


 すると茶屋の娘が、埃をぱっぱと払いながら瓦礫から這い出で言った。


「久坂様は今年で十六歳ですよ」


 三十郎はズッコケた。そして驚嘆した。

 十六といえば、万太郎より五つも下である。


「見えんなあ……しっかりしてた」


「大変なんですよあの人。ここ数年でご両親もお兄様も亡くされて、独り身になっちゃったんです」


「なんと、それは……しかし、元気そうだったな」


 となりで万太郎が胡坐をかいて、久坂の走り去った方を見つめていた。三十郎や千三郎が身支度を始めても、万太郎は見続けていた。


 そうか、あいつは置いて行かれて孤独なんだ。淋しいんだ。

 自分が追い続けるべき背中を、必死に探し求めているんだ。


 こんな柄にも無いことを考えるのは、今朝見た夢のせいだろうか。万太郎は頭を振って、今自分が為すべきことをせねばならんと思い出した。そして、それをすぐさま実行した。


「お茶屋のお嬢さん、お怪我はありませんか? 大切なお着物が汚れていますよ。よかったら新しいのを買ってあげます」


 後頭部のあたりを三十郎に叩かれた。


 〇


 萩を出る。

 と三十郎が言った。


 万太郎と千三郎が顔を見合わせるのを見て、兄は「すまん」と頭を下げた。

 すまんも何も、三十郎が吉田寅次郎に拘泥して居座っていただけで、はなから弟二人にはこの地に用事はないのである。三十郎としては、引っ張りまわしてしまったことを詫びているのだった。


「俺たちはいいけどよ、むしろ兄貴は良いのかよ」


「だって吉田寅次郎、さっきのあの男と手紙で激論を繰り広げるような輩だぞ? きっとあれより熱くて短気でうるさくて……もっと大変な目に遭うに違いない……」


 だが、収穫はあった、と三十郎は言う。


「お陰様で、この国の在り様を知ることができた。何のために国事を成すのか、見えた気がするぞ」


「どうすんのさ」


「つまりは攘夷だ。この国を清の二の舞にしては絶対にいかん。そうならぬように、我々は頑張るわけだ。そしてどう頑張ればよいかは、九州の名だたる先生方の門下に入れば自ずと分かることだ!」


 かくして、三兄弟の志士としての方向性が定まった。一応便宜上は、攘夷派として分類されることになるだろう。言葉がふわふわしているのは、別段彼らが攘夷派として活動した記録が無かったからである。

 とその時、千三郎が転んだ。

 すぐに駆け寄った三十郎が「負ぶってやろう」と荷を解き始める。

 すると万太郎が頬をぽりぽりしながらやってきて、三十郎の肩に手を置いた。


「兄貴は、まあ、昨日も走り回ってたし、俺は寝てただけだし、千を置いていけないし、重い荷を持つのも鍛錬になるし……」


 歯切れの悪い万太郎に二人が首をかしげていると、万太郎は「もういい」と言い捨てて、三十郎と千三郎の荷物をふんだくり、ガチャガチャと音を立てながら一人でのしのし歩きだした。


「なんだあいつ。……おい千、怪我は大丈夫か?」


「大丈夫です」


「そうかそうか、ああよかった。お前に何かあったら、亡き父上に夢でなんと言われるか! なんてな、ははは」


「あの、兄上。教えていただきたいことがあるのです」


「なんだ改まって。あ、さっきの久坂殿の話が分からなかった、とかはやめろ。俺もあんまし分かんないんだから」


「兄上たちに、姉君がおられたのですか?」


 三十郎は「おお、そうだぞ」とあっさり答えた。曰く名前は「はる」で、三十郎より六つ年上で、万太郎とは九つも離れており、もはや大人と子供ほどの差があった。十七の時に他家に嫁いだが、その二年後に流行病で亡くなった。


「どんなお人だったんですか、はる姉上は」


 そう聞くと、三十郎は胃のあたりを抑えつけ、顔を真っ青にして苦薬を飲んだような顔になる。


「…………父上より厳しくて、母上よりおっかなかった」


「え」


「万太郎を猫可愛がりしておってな、幼いあれが泣くとすっ飛んできて、どうせアンタが泣かしたんでしょ、と俺を理不尽に……」


 なんか、万太郎の夢で聞いた話と違う。


「だが、居てくれて何より助かったことは、賀陽姫様と親しかったことでな。よく茶会に呼ばれていたなあ。そんでもって、そのお陰で姫様がうちによくお忍びで遊びに来てくださって、えへ、えへへ、えへぇ……」


「兄上、気持ち悪いです」


「すまん」


 と、こんな話をしたものだから、三十郎はふと備中松山の事を思い出してしまった。そして、久坂を山田方谷に会わせてやりたい、と思った。きっとあの才能を方谷は気に入るに違いない。


 いや、やはりだめだ。


 あの気質だ。温和な方谷と上手くやっていける様子が想像できない。


「師を選ぶというのも、中々大変だなあ」


 その独り言を聞きつけた万太郎は、わざわざ振り向いて声を張った。


「久坂なら、自分で良い師匠を見つけるさ。不思議と独りぼっちのやつには、良い師匠が現れるんだ。俺もそうだった」


「適当を言うな。お前がいつ独りぼっちだった?」


 三十郎の言葉に、万太郎は振り返らなかった。


 三十郎は首を傾げる。まあ、女にフラれて「独りぼっち」などと言っているのだろう。面白くない弟だ。と結論付けた。

 歩いていると向こうから、子供を連れた男がやって来た。

 どうやら寺子屋の先生らしく、「先生」と呼ばれている。


「先生、今日は何するの?」


 教え子の純朴な問いに、男は「田んぼで稲の収穫を手伝いましょう」と優しい声で笑いかけた。


「えー楽しくない」


「お父ちゃんがやってるから知ってる」


「自分でやらなきゃ、知ったとは言えませんよ。それにみんなでやったらきっと楽しいです、大丈夫」


 その様子を見て、三十郎は「いいなあ……」と目で追った。


「ああいう師匠だったら、私も弟子入りしたいかも……」


「兄上は稲作を学ぶのですか?」


「はッ そうだった、私は攘夷の為に奔走する志士であった! ひょろひょろの優しそうな先生に百姓仕事を教わっている場合ではない!」


 三十郎は歩くのを速めた。千三郎は、それを追いかけた。もう座り込むことはしない。兄の背を、夢中で追った。

 その背後で、そんな失礼なことを言われているとは知らず、先ほどの男と子供たちは賑やかに歩いている。


「松陰先生、お弁当は?」


「あ…………塾に忘れてしまいました」


「えーっ 今から松下村まで戻るの?」


 安政三年。

 己の人生を国事の為に燃やし尽くした吉田寅次郎、もとい松陰にとって、束の間の木漏れ日のような秋。

 それが落葉とともに終わろうとしていた。

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