第8回「心のこり その④」

 三人で方々探してみたものの、やはり皆「吉田寅次郎」の事を語ろうとはしなかった。一応、皆が知っているようではあった。往来の誰に訪ねても、その名を聴けば皆が振り向いたし、表情を変えた。

 大体は、ぎくり、とでも言いたげな顔をして、はぐらかしてどこかへ行ってしまう。


「一体どこにおられるのだ、吉田先生は……」


 一度、休もうということになって、三人は菊ヶ浜きくがはまの真白い砂の上へ腰を落とした。萩の海は静かだ。波が激しい瀬戸内の海とは違い、ゆるやかに時が流れるのを感じる。

 思えば、海をゆっくり見るなど誰もが初めてのことである。

 これが海、か。

 広大な水平線。もし、ここに山のように巨大な舟がやってきたら、どうして戦えば良いと言うのだ。三十郎には判らなかった。


「なんか、叫びたくなっちゃったな俺」


 三十郎はそう言うと、立ち上がって二、三歩浜を歩いた。

 すう、と息を吸うと、彼はその胸中を全てさらけ出すつもりで、凪いだ海に向って叫んだ。


「ヤッホー!」


 弟二人はズッコケた。


「いかん! 俺、山国育ちだからつい言っちゃった!」


「バカ! そもそも江戸時代にヤッホーは無い!」


「え、そうなの⁉ じゃあなんて叫べば⁉ この情熱をどの言葉に乗せてぶつけろと言うんだ!?」


「山の言葉で、語感が似てるというと……」


 ちょうど同時刻。

 一人の若者が菊ヶ浜へやってきた。どうやらすこぶる機嫌が悪いようで、肩を怒らせ、鼻息を荒くしている。つるりと丸められた頭が、陽光で綺麗に光っていた。


「畜生畜生、許せんぞ吉田寅次郎」


 若者は一本の松に寄りかかり、水平線を見つめた。そして己が生まれ育った萩の海を、ぐるりと見つめた。


「……脆い国だ」


 この男の脳裏にも、菊ヶ浜に迫る黒船があった。それは三十郎と同じなのだが、彼の方がより具体的にその問題を思案していた。

海防を厳重にせねばならんのに、どこも手つかず。夷狄の船がどこからでも入って来れてしまう。入って来たとして、そもそも侍たちは弱腰すぎる。皆、異国と戦う気概が全くない。

 このままではこの国に待っているのは……。


「蹂躙だ……!」


 憂国の若者はふと、浜で海を見つめる三人組を見つけた。

 全員ボロの羽織袴だったが、どうやら士分らしい。

 ほう、海防に理解のある侍か。中々骨のあるヤツがいるではないか。何やらしきりに叫んでいる三人。若者は、その三人の溢れんばかりの情熱に耳を澄ませてみた。



「 「 「 へいへいほ~! 」 」 」



 若者はぶっ飛んだ。


「何をしてるんですか貴方たちはッ 北島三郎かッ」


 思わず叫んだ若者を、三人は振り返った。途端に三人とも、三者三様に照れ始めた。人がいるのに大声で叫んでいるところを見られたからだ。


「もじもじしない!」


「ああ、いや、お恥ずかしい……あまりゆっくり海を見たことが無く……」


「へえ……物見遊山とは随分と呑気なものですねえ、この危急の時に。国の為に志士として立ち上がろうとは思わないんですか?」


 そう聞いて、ハッと自分たちが萩にいる理由を思い出した三十郎。

 その若者にも吉田寅次郎について何か知らないか、聞いてみた。

 途端に若者は表情を強張らせ、俯いた。大きな目をさらに見開いて、歯を食いしばり、拳を握りしめて震えている。


「吉田寅次郎……」


「ご存知かな?」


「ご存知も何も……」


「あ、もしやお弟子さんかな? だとすれば都合がよい、我々を案内してくれぬかな」



「誰があんな男の弟子なんかになるかあああッ!」



 若者の溢れんばかりの絶叫が、菊ヶ浜に響いた。


 〇


「失礼、つい声を。私は久坂くさか玄瑞げんずい、毛利家の藩医です」

 そう、この熱い若者は、久坂玄瑞。幕末物でもトップクラスに人気な名前なので、もう一度書かせていただきます。


 久 坂 玄 瑞 。


 後に吉田寅次郎の門下生として高杉晋作らと共に尊王攘夷活動に奔走していくこの男だが、今はまだ一介の医者に過ぎない。とはいえ、彼の人生の一大変革期は目前に迫っている。谷三十郎たちはちょうどその時期に、萩の菊ヶ浜で「へいへいほ~」とやっていたのである。ラッキー。


「ほう、お前は医者か」


 三十郎たちは、浜を少し離れた茶屋に腰を下ろしていた。お茶をすすりながら、三十郎は久坂玄瑞の頭から足までをじろじろと見まわした。特に頭に視線が行くとき、久坂は露骨に嫌そうな顔をした。


「……何です」


「いやナニ、医者も国の事を考える時代か、と思ってな……」


「何ですって!」


 突然声を張り上げた久坂は、立ち上がって三十郎を睨みつけた。三十郎はびっくりして団子を喉に詰まらせかけた。

 もちろん三十郎に何か久坂を罵倒しようとする意図はない。しかし向こうは違った。彼は前年に九州遊学を終え、世情と見識を蓄えて帰国している。その根底には、家を継ぎ藩医として一生を終えたくない、という彼の反骨精神があった。

 そう、彼は医者などやりたくなかったのだ。その為、三十郎の「医者も国の事を考える時代か」というのは、彼の耳には、


「片田舎の医者坊主ごときが国事のことを考えている。所詮浮ついた思慮の浅い議論しか出てこないだろうに。妙な時代になったなあ」


 と聞こえるのである。何よりこれを、自分が軽蔑する「国防に一切関心の無い緩みきった侍」に言われたのが一層腹が立った。


「失礼、つい声を」


「三十郎兄上、この人怖い」


「わかる……」


 久坂玄瑞。すぐにカッとなる男。

 しかしこの短気さが、時代を動かす。


「で、皆さんはどうして吉田寅次郎に会いたいのですか」


「それがな、国の為に何かをしたいが、何をすればいいのかサッパリわからんのだ。だから教えてもらおうと思って」


「は?」


「俺は難しいことは分からんから、槍の腕を磨こうと思って。ついでにお国の為になれば一石二鳥」


「は?」


「付き添いです。色んな景色が見れて楽しいです」



「あんた方は、この国難になんたる惰弱だあああああッ」



 久坂はひとしきり叫び丁寧な作法で茶を飲むと、言った。


「大声を出すと疲れる」


 茶屋の娘や他の客含む全員ズッコケた。


「しかしそういうことなら、寅次郎などという不遜な輩を頼ることはない。国の為に何を成すべきか、私が教えましょう」


 それは備中松山で生まれ育ち、日本という国の大事には関わりを持たずに育った谷

三十郎にとって、初めて耳にする西洋事情だった。


「大国だった清はこうして敗れ、今や夷狄の好きなようにされている」


 久坂の講義は、やはり熱かった。


 いつの間にやら久坂自身がのめり込んで語っていた。


「だというのに! 島国の我が国には、一切の軍艦も、戦える台場も、まともな砲台すら不足している! これでは戦にすらならないんだ!」


 丸い頭に血管が浮き出て、蛸のように真っ赤な顔になっている。


「だからこそ、我々は弱腰な幕府の目を醒まさせねばならない! いや、座して皇国の滅亡を待つぐらいなら、脆弱な幕府に頼らず我々自身が刀を取り、夷狄を斬らなければならない!」


 そう言って、久坂は腰の物を掲げた。久坂は熱くなりすぎていて触れなかったが、その場に居る全員が「木刀だ……」と思った。だが、絶対にこれだけは触れてはいけないと思い、全員で口を噤んだ。


「私はこれほど国を憂いているというのに、あの吉田の寅次郎……! せっかく宮部先生の紹介で文を出してやったというのに、あの返事はなんだ! 私の言説が迷い言だと⁉ ならば私はどうすればいいんだ!」


 久坂の視線が、ギョロっと三十郎に向いた。三十郎は思わず姿勢を正してしまった。


「どうすればいいと思います⁉」


「え……え、私⁉」


 さあどうする三十郎。

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