第8回「心のこり その③」
「万太郎、何だそれは」
「男の夢の跡さ……」
万太郎はお土産で貰ったカブトガニの甲羅を持て余していた。
この調子で七日ほど、三人の旅がつづいた。
そしていよいよ萩の城下へと入った。
三十郎は「なんだか似ている」とその城下を見渡して感嘆している。といっても、地理的なことでは無い。
むしろその点において海岸の近い萩と四方を山に囲まれた備中松山は大きく異なっている。しかし自然に囲まれた小さな空間で、肩を寄せ合って町が営まれている様に、三十郎は親近感を抱いた。
吉田寅次郎。
他国でもあれほど評判になる男だ。備中松山で言うところの山田方谷のような聖人君子に違いない。
さて如何なる人物であろうか。
三十郎は足早に萩城下の石畳を歩き、「吉田寅次郎」を探した。どこか焦っているような兄の背を、千三郎を負ぶった万太郎が見つめていた。
「笠岡村のあたりから、妙に元気だな。千まで押し付けやがって」
「万太郎兄上」
背中で千三郎が声を出した。
「千はお荷物ですか」
「……」
「千はお寺に入った方がよかったですか」
あの時、話を聞いていたのか。
万太郎は千三郎を下ろすと、その縋るような目を見ることも無く、さっさと槍を担ぎ直して歩き出した。
「俺は兄貴とは違う。お前の御守り役じゃない」
この際だから言っとくが、と万太郎は続ける。
「なよなよした女々しい身内は嫌いだ。ついて来るなら、それだけ強くなれ」
万太郎は厳しく言い放ち、まだ幼い千三郎を置き去りにしたまま城下を歩いた。三十郎が戻った時には、千三郎が一人で城下に立ち尽くしていた。駆け寄って万太郎の居場所を尋ねたが、何も答えない。
「……とにかく、宿を取るぞ。吉田先生に教えを乞う時は、千も一緒に国事のことを教えてもらおうな」
「……」
「うん? あ、そうかそうか、知らぬ国に来て疲れてしまったのだろう! ほれ、今度は俺が負ぶってやろう、ほら乗っかれ!」
「……ます」
「え?」
「自分で歩けますッ」
中腰になる三十郎に言い放ち、千三郎は歩き出した。
背負った木箱のメダカは三匹。二匹のメダカが泳ぐ後ろを、小さなメダカが追いかけている。
〇
萩の宿場は、四畳ほどの狭い部屋だった。三十郎はこれが気に入らなかったようで、荷を下ろすと「吉田寅次郎を探しに行く」と再三言い出した。
「こんな座敷牢のような場所で寝れるか!」
「良いとこの坊ちゃんみたいなこと言ってんなよ」
「良いとこの坊ちゃんだったんだが!?」
口にすると益々今の自分が情けなかった。これ以上弟たちの顔を見たくなかった。宿場を飛び出した三十郎は、何としても吉田寅次郎を探さなくてはならなかった。
弟たちは、そんな兄を追うことはしない。万太郎も千三郎も、吉田寅次郎などどうでも良かった。
部屋に二人きりだった。
気まずい沈黙が続いた。
千三郎は賀陽姫が持たせてくれた千代紙を折っていた。万太郎はそんな千三郎に背を向けて横になると、まもなく寝息を立て始めた。
兄を追わず、弟にも背を向けて眠りにつくと、不思議と気楽だった。
今、俺は一人だ。やっと一人だ。
そのまま夢の中へとろとろと入ろうとしていた万太郎を、冷たい隙間風が邪魔をした。目は開かないが、足先が寒く煩わしい。
そうしていると、なんだか暖かいものがわき腹に乗っかった。
これは……と、万太郎の身体の力がすっと抜けた。そしてそのまま、まどろみの水底へと落ちていった。
〇
千三郎は気づくと、夏草の上へ寝そべっていた。そこは荒れ寺で、古びた境内の石を枕にしていた。時は夕暮れで、茜色の空が竹藪の向こうからこちらを覗いている。
千三郎はこの寺をどこかで知っていた。
ここは備中松山。すぐに分かった。
ぼんやりと故郷の藪の中に立っていると、なにやら声がする。誰かが泣いている。見れば、朽ちた本堂に続く石段に、少年が独りでしゃがみこんでいた。毬栗頭を腕にうずめて、しきりに泣いている。
歳は千三郎よりも幼いようだった。
千三郎は、子供の顔を覗き込んだ。
「……怒られたの?」
「違う」
少年は顔を持ち上げた。顔を真っ赤に泣き腫らして、鼻の両孔から水が垂れていた。
「死んじゃった」
「誰が」
「姉上。姉上が死んじゃった」
顔を持ち上げた少年の顔を見て、千三郎は目を丸くした。
そこに居たのは姿こそ幼いが、万太郎だった。
「……万太郎兄上?」
「万太郎? 俺万吉」
万吉。万太郎の幼名だ。
とすればやはり、目の前の毬栗少年は兄の万太郎であるらしい。千三郎は松山の屋敷を思い出したが、どこにも姉の面影はなかった。そもそも自分に姉がいたことすら初耳である。
姉、と聞いて真っ先に浮かぶのは、松山を出る前に城で自分によくしてくれた賀陽姫だった。膝枕をされた時の、抱きしめられたような温もり。顔も知らない「姉」も、あのように暖かい人だったのだろうか。
「姉君は……どんな人?」
「兄上より強くて、兄上より人間ができてる」
「に、人間が……」
万太郎……万吉のいう『兄上』というのは、かつての三十郎らしい。
こんな昔から仲が悪かったのか……。
万吉は姉のことを話した。父に怒鳴られた後、優しく慰めてくれたこと。母が構ってくれない時、話し相手になってくれたこと。父母に代わって兄を叱りつけてくれたこと。
話している間、万吉は泣き止んでいた。照れくさそうに笑っていた。しかしそれからすぐ、姉がいない世界に自分が取り残されてしまったことに気がついて、また泣き出した。
千三郎は、この子に何を言えばいいのか、ずっと分からない。
これまで、同じ年ごろの子どもともほとんど喋らずにきた。周りはいつも、大人だらけだった。そして大人たちは、こんな風に泣いたりしなかった。
困っていると、山門に誰かの影が見えた。
身なりの良い少年で、腰には刀まで差している。新品の黒革の鞘が、つやつやと光っていた。桃のような頬が、夕焼けでますます赤くなっている。少年は万吉に近づくや、大人さながらの声で怒鳴った。
「泣くなッ」
千三郎はこの少年を知っていた。いや、この声を知っていた。父が死んだ頃、素読や鍛練の折に自分を叱った兄と同じだった。
少年は、かつての三十郎なのだろう。
「男が泣くなッ 姉上が、姉上がいなくなって悲しいのはお前だけじゃないんだぞ! 父上だって母上だって、本当は泣きたいんだぞ!」
泣き続ける万吉の胸ぐらを、三十郎少年は掴み上げた。千三郎は制止しようとしたが、なぜだかすり抜けてしまって触れられない。
それでも泣き止まない万吉。しばらく無言で見つめた後、三十郎は捨てるように万吉から手を離し、黙って歩き出した。山門には、いつの間にか二つの影があった。
父と、母か。
「次男の万吉は、また泣きべそをかいて。情けない」
「嫡男の三十郎は、こんなにしっかりしているのに」
二人は三十郎を迎え入れ、三人で寺を去っていく。万吉は思わず立ち上がって、「待って」と三人を追いかけた。千三郎が枕にしていた石に躓き、転んだ。それでも、痛みも気にせず無我夢中で追いかけた。
「待って」
「ごめんなさい、もう泣かないから」
「待ってよ兄上、兄上ぇ」
目が醒めた。
潮騒がかすかに耳に届いている。目の前に広がる古ぼけた天井。萩の朝。なぜだか、自分の頭が上下している。千三郎は自分が、万太郎の腹を枕に寝ていたことに気がついた。その隣では、疲れ果てた三十郎が泥のように眠っていた。
その日も、三十郎は吉田寅次郎を探すと飛び出した。
「吉田寅次郎と聞くと、皆が何かを察したような顔をして話をはぐらかす! 今日こそは見つけてやるぞ!」
「俺も行く」
珍しく万太郎がそう言った。あまりに珍しいので、三十郎は「え」と聞き返してしまった。
「お、お前も興味が出て来たか! 一緒に志士として頑張ろうな」
「別にそういうんじゃ……。じっと寝てたら嫌な夢見たんだよ」
「なんだ、フラれた夢でも見たか?」
「姉貴の夢」
「…………そうか、もう十年以上前か。あの頃から、俺たちは変わらんな。姉上が居ないと、いっつも空回りで、失敗ばっかりで」
三十郎がしみじみと胡坐をかく隣で、万太郎は突然機嫌を悪くしていた。
「いいや、兄貴は変わったよ」
万太郎は一人でさっさと宿場を出ていってしまった。三十郎は慌てて追いかけた。千三郎も続いた。もっと兄たちのことを知らなければならないと思った。
ちぐはぐな三人だった。
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