第8回「心のこり その②」

 いよいよ幕末血風の渦中に漕ぎ出した谷三兄弟。

 その長男三十郎の声が、青天に響いた。


「帰りたいよおおお……」


 背後でこの情けない声が上がる度、万太郎は舌打ちして足を速める。

 そうだ、兄貴はこういう奴だった。

 かつて兄のなよなよしたところが大嫌いだったが、近習役で苦労したり、色々あってお家断絶となったりなどなど一緒にしているうちに「まあ、兄貴も色々大変だよな」という気持ちになっていた。だがそれは生活する時間がずれて、あまり一緒にいなかっただけであったらしい。


「万太郎お、今からでも殿に謝って許してもらえないかなあ」


「……」


「母上の味噌汁が飲みたいなあ、万太郎」


「……」


「庭の柚子はもう実をつけたかな。あ、恰殿はメダカをきちんと世話してくれているだろうか」


「…………」


「万太郎~」


「うっさいなあ、もう!」


 振り向くと、遠くで兄がしゃがんでいた。あんな遠くでなにを道草くってんだノロマ。そのまま進もうかと思ったが、よくよく様子を見てすぐ、万太郎は溜息をついて駆け戻った。千三郎が路傍に座り込んでしまったのである。

 三十郎はそれにかまっていたのだった。


「千がもう歩けん。ここらで休憩しよう」


「まだ笠岡だ、備中を出てすらないんだぜ! このままじゃ九州行くのに十年かかっちまうよ!」


 千三郎はまだ幼く、さらには体力がない。部屋でぬくぬく育った白い顔が真っ青になっていた。


「まあ、急ぐ旅でもない。この辺りで宿を取るとしよう」


「だから、俺は連れて行かない方がいいと思ったんだ。今からでも遅くない、禅寺にでも預けてやった方がいいんじゃねえの」


「ダメだ。我らは姫様から直々に千を任されたのだ」


 兄のこういうところも嫌だ。変なところで主家を気にして、頑固になる。今更板倉家に阿ってどうなる。そもそもこんな旅をすることになったのも、板倉の殿様が思い付きで自分たちを追い出したからじゃないか。

 怒りが募り、つい「これ以上荷物は増やせないんだぞ」と怒鳴った。言い切った後にハッとして千を見ると、膝を抱えて顔をうずめ、動かなくなっている。


「す、すまん千……言い過ぎた……」


「万太郎、謝っても無駄だ」


「いや、本心じゃないんだ。千が一番不憫なことは、俺もわかってるんだ、ついカッとなって……」


「無駄だと言ってるだろう」


「いや、謝らせてくれ! 頼む千、俺が馬鹿だった、すまん!」


「無駄だってば」


「なんでそういうこと言うんだ!」


「こいつ寝てるぞ」


 ぶっ飛んだ万太郎が青空を舞った。


 ちょうどその時、千三郎は目を醒ました。きょろきょろと備中の田舎道を見渡したと思えば、自分を見下ろす兄に「夢を見ました」と言う。


「真白い部屋に、お侍が座っておりました。目がこんなに、こんなに大きなお侍です」


「またそんな夢か。今度の御方は、なんと言うておられた?」


「石造りの櫓を指差して、あれが煙を吹くまで成仏できん、と」


「怨霊か? なんか不吉だなあ」


 万太郎の脳裏では、この呑気な二人の頭に花が咲いているように映る。故郷へ帰るんじゃなかったのか、そのために国事に奔走するのではなかったのか。

 決めた。と、万太郎は自分の荷物だけを取りまとめた。最早こんな兄弟たちに付き合ってやる義理はない。一人で諸国を旅する方が、まだ動きやすい。


「兄貴、悪いが俺はここで……」


 振り向くと、既に二人の姿はない。どれだけ勝手に動くんだ。あたりを見渡せば、田園の中にある茅葺の屋敷の前に居た。そこへ宿を借り行ったようだ。


 勝手にしろ。このまま何も告げずに一人で行ってしまおう。


 そう思った万太郎だが、ふと足を止めた。細い目をさらに細めてよく見ると、三十郎が話している庄屋らしい男の後ろに、十七ほどの美しい娘が控えている。

 バビュン、という音とともに、万太郎は三十郎の隣に立っていた。


「やあ兄上、今日はここで宿を借りるといたしましょう」


「え? いや、たった今そのつもりで話をつけたのだが」


「流石に兄上、動くのがお早い。急ぐ旅ではありませんからね。さあ、荷物を置かせていただきましょう」


 そういうと万太郎は一人でさっさと屋敷へ入ってしまった。

 そして庄屋の娘がその後ろ姿を目で追いながら、頬を赤くしているのを三十郎は見逃さなかった。


「アイツ、結構調子いいよな」


 屋敷の板張りの一部屋に、三兄弟は荷を下ろした。夕焼けが障子を桃色に染め、寝そべる三十郎の頬に格子の影を落としている。障子紙を隔てた庭で、鶏の声と一緒に万太郎と娘の楽しげな声が聞こえてくる。


「……なあ千、俺と万太郎は顔が似ているよな」


「そっくりです」


「ならばなぜ、アイツだけ女に好かれるんだ……」


 この時三十郎たちは、笠岡村の庄屋に宿を借りていた。


 笠岡村は現在の岡山県と広島県の境に位置し、玉島同様に瀬戸内に面する湊として栄えた。元禄の頃にこの辺りを支配していた水野家が改易されてからは天領となり、代官所が置かれている。


 代官、というと時代劇の悪代官が想起されるが、笠岡代官は殊に善政を敷いた例が多い。

 飢饉の際に幕府に無断で米蔵を解放した名君で、また唐芋の栽培を推奨し「芋代官」と親しまれた井戸平左衛門。

 庶民の為の教諭所を開き、慕われすぎた結果四度にわたり領民たちから代官留任の歎願書が届いた早川正紀。

 天領として君主に恵まれたこの地では、とりわけ徳川家に好意的な者が多く、幕末の動乱にあっても一人として倒幕の志士は出なかった。


「では皆さまは、国事の御為に故郷を棄てて、奔走されておられるのですか」


 夕餉をかき込む三人に、庄屋は目を丸くした。


「まあ……そんなとこですかね」


 勿論、半分嘘である。


 お家騒動になりかねない落胤を抱えて追い出された、と正直なことは到底言えない。庄屋も娘もすっかり信じ込んで、自分たちも滅多に口にしない酒を取り出し、三十郎たちに振舞った。


「まあ、苦労されたんですのね……こんなに汚れたお召し物で……」


「ええ、まあ。長旅ですっかり汚れてしまいました、ハハハ」


 勿論、全部嘘である。


 夜が更けた。千三郎の頭がぐらりぐらりと波打ち、そのままコテンと寝てしまった。万太郎と娘はいつの間にやらどこかへ行った。酒で顔を赤らめた三十郎と庄屋とが、行灯の明かりで話し込んでいる。


「国事を学ぶなら、萩に立ち寄られるのがよろしいでしょう」


「萩ですか」


「高名な先生がおられます。名は吉田寅次郎様」


 知らぬ名だな、とこの時の谷三十郎は酒を飲んだ。これより八年後、まさか立ち寄った村の庄屋から聞いた「吉田寅次郎」の弟子たちと池田屋で刀を交えることになるとは、勿論思っていない。


「その御方は、江戸前の黒船にお弟子さんと二人で乗り込んだそうで」


「なんと勇ましい! 異人を討ち取ったのか?」


「いや、異国に渡りたいと頭を下げに行ったそうで」


 三十郎はズッコケた。


「変な人ですねえ~~~。そんな人に何を教われというんですか」


「ですが近頃、尊王や攘夷を訴える方々は、皆一度は門を叩くそうでございますよ」


 ふうん、と酒を喉に流しながら、三十郎は萩へ行くことを決めた。

 国事、国事、と言ってはいるが、具体的に何をすればいいのかが全く分からない。そのためには、高名な志士に師事するのが一番手っ取り早い。とその時、庄屋が訊いた。


「おそれながら谷様は、どのような事を成すつもりなのですか?」


 酒を飲む手が止まった。

 随分と酔いの回った赤い顔で、三十郎はぼんやりと梁を見つめた。


「……どのような、といいますと」


「夷狄を斬られるのか、それとも御公儀に倣って国を開こうとされるのか」


 三十郎はそのまま、しばらく天井を見つめていた。あまりに長く見つめているので、庄屋はだんだんとこの男を疑い始めた。しばらく経ってつつ、と視線を落とした三十郎は、猫のように丸くなって眠りこける千三郎を優しく撫でた。


「わからんのです」


 あんまり真剣な顔で侍がそう言うものだから、庄屋は思わず吹き出してしまい、笑った。笑い声が、茅葺から秋の空へと抜けて行った。


 その日、三十郎は夢を見た。

 どこまでも続く石段を、自分はせっせと登っている。だが、この先になにがあるのかは知らない。臥牛山のように大きな荷を背負って、蝸牛のような出で立ちで、ひたすら登り続ける。荷物の中から、時折万太郎や千三郎の声がした。


「どこなんだ、ここは……帰りたい」


 三十郎の寝言が、板間に響いた。

 ちなみに万太郎はというと、娘とどこかへ行ったきり一晩帰ってこなかった。そして明け方、笠岡の海岸に二人はいた。


「で、これがその変なカニ! 明け方に浜を這ってるの!」


「へえ……君って個性的なんだね……」


「個性的なカニよねえ!」


「そうだね……」


 笠岡名物カブトガニをわしづかみにして娘は笑っていた。万太郎はうにょうにょ動くカブトガニの裏側を、寝ぼけまなこで見つめていた。すぐに気持ち悪くなった。

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