第8回「心のこり その①」
尊王。勤皇。時代を象徴することばたち。
王城におわす帝を尊崇する在野の人々は、
これらを帆に掲げ、漕ぎ出でてゆく。
あるとも知れぬ理想郷を目指して。
⚪︎
幕末という時代、政治の中心は江戸城から御所へと移ってゆく。そして、どうにかその政治に食い込もうとする草莽の志士たちもまた、同じく京へと集ってゆく。
後に芹沢鴨、近藤勇たちは京で大規模な隊士募集を行うが、上述の大望を掲げた有象無象の輩たちはこぞってこれに参加した。
「おしゃ! 将軍警護、やったるで〜い!」
この頃にはすっかり関西弁が板についている谷三十郎もまた、その有象無象の輩たちの中に居た。
だが、ちょっと待っていただきたい。
このまま話を関西に進めるわけには、どうしてもいかないのである。
というのは、これより八年後。
後に政治の中心が京になったが故の悲劇が起こる。
その内乱は
この時、三十郎はある男を捕らえたと記録にある。その男は最初、捕虜として己を捉えておきながら、茶や煙草など何かと世話を焼く敵を、それも
だがしばらくして、何かをきっかけに、自分がかつてその男と剣を交えたことがあると思い出した。彼は言った。
「もしやお主……
「そうですねんそうですねん! ほんま、かないまへんわ~!」
今の台詞を巻き戻して。
「もしやお主……久留米の剣術道場にいた、谷三十郎か?」
「久留米の剣術道場にいた」
「久留米の剣術道場にいた」
そう、どうやら谷三十郎は、以前久留米の道場に在籍していたようである。よって、玉島に出て来た谷三兄弟は、一度北九州へ行かねばならない。
なぜ彼らは北九州へ行ったのか?
それは「あの男」の入れ知恵なのだが……。
「君たツィ、ちょっと待ツィたまえ」
三兄弟が振り向くと、そこには鼻がツンと尖ったいけ好かない嫌な目つきの男が立っていた。
軍学者であり草莽の志士、武田観柳斎である。
「おじさん、まだ何か用事ですか」
「おじさん言うな。イヤナニ、行先を示してやろうかと思ってね。君らの事はよくわかる。僕の計画に加担するぐらいだ。志が高いのだけが取柄の、家無し金無し行くあて無しの浪人三人組なのだろう?」
「兄上たちはそういうお人じゃありません」
言い切った千三郎に、兄二人は少し驚いた。この子が年上に毅然と言い返す姿は、初めて見る。なんだか誇らしかった。
「志だって無いんですから」
二人はぶっ飛んだ。
「そこで、どうだろうか。西へ向かってみないかね」
三人は「西」と顔を見合わせた。
備中松山から出ることなく育った彼らにとっては、その方角に何があるのかすら知らない。見たことの無い西南諸国の名が、脳裏にぼんやりと浮かんでいるだけだ。
「ピンと来てないようだね、さもありなん。そこが正しく僕が君たちに西へ行くことを進める理由に繋がっているんだ」
勿体ぶった言い方をした後、観柳斎はまた三十郎の鼻先にピッと人差し指を突き付けた。
「君たちに足りない物、それ即ち『学』だ」
三人は「学」と顔を見合わせた。
「学というのも、字を書くだの四書五経を知っているだのということではない。見聞が狭いと言っているんだ。開国、攘夷、尊王。こういう言葉の意味は分かっていないと、この時代で生きるのは苦労するぞ」
そういえば、備中松山でもこうした言葉を聞いたことがあった。
三年前に黒船来航で国中に激震が走った時、松山でも若い侍たちは「攘夷」と息巻いていた。
「そして、西国から今の世情を学ぶなら九州だ! 名だたる勤皇家の先生方もおられるし、何より長崎で異国船も視察できる。どうかね」
「断る。興味がない」
言い切ったのは万太郎。
彼はこの放浪の旅で、学を修めようと言う気は全くない。ただ己の槍の腕を試し、磨き上げたいという純粋な好奇心で突き動いていた。
そんな彼を引き留めたのは、やはり三十郎だった。
「いや、ここは皆で一度九州へ行ってみよう」
「また
「別に学のある者皆が
「妙に肩入れするじゃんか」
「考えても見ろ。この港にすら尊王を謳う志士がおるということは、日本全国にはより多くの志士が溢れかえっている、というわけだ。我らもその中で志士として名を上げ、国事に奔走すれば、いずれ……」
「いずれ……?」
「偉くなって故郷に帰れるかもしれん!」
三十郎以外の全員がぶっ飛んだ。
三十郎の脳裏には、その能力で身分の枠を大きく飛び越え、藩を動かすまでになった山田方谷のことがある。つまりは人事に関して、板倉家は殊に寛大になっているのではないか。
無論、針に糸を通すような打算である。
ただこの男は、加えて藩主板倉勝静の出生と性質の事も頭にあった。
勝静はどうにも雰囲気が飄々として分かりにくいが、あの殿様は内心愚直なまでに幕府に忠節を誓っている。だからこそ自分たちは、落胤の千三郎と共に国を放り出されたのだ。
ならば国の為、ひいては幕府の為に動く我らを、勝静が嫌厭することはあるまい。ひょっとするとお家再興を認めてくれるかもしれない。
仮にも近習役として、勝静に仕えた男。よく見ている。
それと同時に、その見ている世界は余りにも狭い。所詮は田舎の小藩でぬくぬく育った若者だった。
彼はこの時代の身分秩序に不平不満を抱いたことは無い。
その点がこの男と志士たちとの最も大きな相違点といって良い。
彼にとって幕府、すなわち徳川家こそが国家そのものであり、それの変革を願うどころか疑うことすらしていない。
すなわち、彼は最も志士に向いていない男なのである。
「うし! 目指すは西だ、行くぞお前たち!」
そんなことには勿論気づかないまま、ただ闇雲に駆ける谷三十郎であった。
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