第9回「極楽の在処 その①」
どれほど拒んでも、進み続ける時間。
緩やかに変わる猶予は、この国にはない。
混乱の種が各地で芽吹き、血が流れる。
八百万の神々はそれを黙して見つめている。
〇
その屋敷は、九州の黒々とした松の林の奥にぽつりと建てられている。茅葺屋根に板の壁。屋敷というより、小屋だ。
砂を踏む音がすぐ近くの松まで来た。
笠を被った一人の男がその小屋を窺っている。
……さて、どうしたものだろうね。
彼はここの主に会いに来ていた。会いに来てはいたのだが、別段会いたいというわけではないのだった。もっと言えば会いたくなかった。
やっぱり帰っちゃおうかな、しかし相手の性格上、行方をくらましたとてその後が怖い。そして何より、己の野望を考えると、やはりこの小屋の主に会わざるを得ないのであった。
行くか、いや、しかし、今日でなくても良いことは良い。
また明日出直そう。もう暗いし。夜分に訪れても失礼だろう。
「随分と久しいではないか、武田観柳斎」
ビクゥエッ と観柳斎が鼠のように跳びあがる。いつ背後を取られた。その野太い声の主は、岩のような大男だった。いくら闇の中とはいえ、この巨躯を一切気取られぬまま背後を取るなど、常人ではない。
「こ、これはどうも、お久しぶりでございますなあ! 僕がこの地を発ってから、ますます剣の腕をあげられたのでは? 近眼といえどこの武田、一切気づきませなんだ! いや、戦場なら斬られておりましたな、なんて、ハハハ」
観柳斎のおべっかをすべて無視して、男は巨大な手でむんずと小男の胸ぐらを掴んだ。
「で、河井某は斬ったのか」
「ああええっと、その……何分手ごわい相手でございまして……」
「渡した支度金は?」
「それはその、なんと言いますか……」
掴んだ胸ぐらをひょい、と持ち上げて、大男は武田を俵持ちにして小屋へずんずんと歩き出した。
「ちょ、おま、お待ちください! 自分で、自分で歩けますから!」
「そう言って逃げる気だろう。さびなか男め」
「お待ちください渡邊先生、渡邊先生え!」
そう、この大男は渡邊昇。
読者諸氏にとってはかなりお久しぶりのため、地味すぎて忘れたという方も多い事とは思います。そのため改めて紹介いたします。
己の剣の腕を頼りに幕末を生き抜いた風雲児、名を渡邊昇。
江戸においては桂小五郎より練兵館の塾頭をまかされ、京においては坂本龍馬より後の薩長同盟の周旋を任されたという超大物。
かつて備中松山に武者修行として出向き、谷万太郎を完封。熊田恰を愕然とさせ、山田方谷と時勢を語らい、そして酔っぱらった谷三十郎にナメクジ呼ばわりされ金的を蹴られて敗北した男。
「そんな昔のことはほっとけ! ……んで武田観柳斎。中で事の顛末を色々と聞かせてもらおうじゃないか、おら入るぞ」
「は、はい……」
すると渡邊昇は小屋の前で立ち止まった。なぜすっと入らないのだろう。身なりを整えて、髷の乱れも直して、一言。
「ごめんください、入ってもよろしいですか」
いやあんたの家とちゃうんかい。
そんなことはさておき。
小屋の主は、板戸の奥から彼らを迎え入れた。思わず心地よくなるような声で招かれる二人。中は茶室のように簡素な作りで、床の間には菊の花の掛軸があった。中央には漆塗りの燭台が置かれ、蝋燭の上で火が煌々と躍っている。
男は真白い浄衣を身に纏っていた。その顔もまた雪のように色白で、両の瞳に映った蝋燭の火だけが赫く揺れている。
「武田君、戻ったのですね」
観柳斎はばたばたと床に手をつけて、男を見上げている。人形のような顔で、彼は観柳斎に笑いかけた。それに応じて、観柳斎も「むへぇ」と笑った。
「大先生、ご無沙汰しております。この武田観柳斎、艱難辛苦の旅を終え、ただいま帰参いたしました!」
「艱難辛苦、ですか。聞くところによると楽しい道中だったようですけれど」
「そんなことはございません! 売国奴河井継之助も殊の外厄介な相手で……」
「小倉へ渡ってから玉島に着くまで、君は至る所で『志士を募る』と称して宴を開き、更には参加した者から金を集めて懐に入れていますね」
ギクリ。この不気味な男、ずっとこの小屋で隠棲していたくせに何故そんなことを知っているんだ。
男は観柳斎の瞳の、その奥を見据えていた。観柳斎は渡邊の剣よりも、なによりこの「目」が恐ろしい。
「先生、某にお任せください。畳は汚さず出たところで殺します」
渡邊は手際よく襷がけになり、一つしかない小さな板戸の前に立ち塞がっていた。観柳斎は平伏して心中で叫ぶ。
(図体だけでかい底抜けの莫迦め。この人形男の屋敷を汚したくないという要らん義理立てに拘泥したのがお前の敗因。ぼろ小屋を出た瞬間に、目を眩ませて逃げきってやるわ)
「武田君」
男の声に再び心臓が跳ねる。
今の考えまで読まれたか。
「よくやってくれました。やり方まで
武田と渡邊はお互いにポカンと口を開け放っていた。
「斬るのに金は要りません。河井某を斬るためだけに金を使うなら、それはその場限りの死に金。ならば後に供えて同志を募る為に使った方が余程その金が生きる」
「しかし先生。京へ上り、政局を変える為に使った方がよほど生きた金になったと思いますが!」
「我らは所詮草莽の士。上京したとて寄るべき大樹がなければ悲願は成就せぬでしょう。今はそれを臥して待つ時。刀を研ぐ時です」
助かる。そう思ったこの瞬間を、武田観柳斎は見逃さない。
「さ、左様! 今は同志を集めることに注力することが肝心。幸い外様大名の多い西国には、幕府と一戦交えることすら厭わぬ尊王の志士が数多おりました! 彼らを引き合わせれば、必ずや大先生の手足としてお役に立てることでしょう!」
「ふふ、軍師さながらですね」
「いやはや、この武田観柳斎の奇策を見破るとは、大先生こそ楠木正成公さながらの御将器!」
「では、引き入れた者たちをすぐにここへ呼んでください」
「え」
「頼みましたよ、武田君」
もちろん観柳斎はこれを快く引き受けたふりをして、また明日、と逃げるように立ち去った。渡邊昇は小さくなるその背中に一瞥をくれてやると、塩をパッパとまいた。力士の土俵入りみたいな光景だった。
「先生、誰でも信用するのは危のうございますよ」
「ええ。特に彼は面従腹背の輩ですからね」
男がさらりとそう言ったことに、渡邊は目を丸くした。それと同時に判った。男は武田に「いつでも監視している」と伝えている。そうしている以上、臆病な武田が表立って逆らうことは無いことを、この男は知っていた。
「しかし、あの俗物にくれてやるにはあの金……やはり惜しかった」
「元は汚い金です。あの長岡の方々、どこで聞いたか我々が人斬りを請け負うと思っている」
「え、やってるじゃないですか」
「あれは禽獣です。人じゃない」
渡邊は「なるほど」と笑った。男も笑った。
「ところで、武田君が最後に行ったのは備中でしたか。渡邊君もかつて行ったことがあるのでしたね」
「ええ、武者修行で」
「ひょっとするとその地の者が同志かもしれません。参考までにあの国の侍たちは、どのような者たちなのですか」
渡邊はそれに答えたが、大体は悪口だった。しかもとめどなく、次から次へと備中松山の侍たちに対する悪口が溢れ出て来る。
ふと男は、その悪口が備中の侍たちの総評ではなく、誰か一人への個人的な悪口であることに気がついた。ちょうど渡邊が「塩なんか投げつけやがって」と言ったあたりである
続けざまに渡邊の言った「でんでん侍」の意味が、男にはよくわからなかった。
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