第9回「極楽の在処 その②」

 さて、ここから歴史が大きく動く。動くのだが。

 肝心の谷三十郎はそのことを全く知らないのである。


「へっくし!」


「瀬戸内と違って、潮風が冷たいな」


「私、箱に入ってますね。中の方が暖かいので」


 その為、やっぱりこの方々らに登場していただくことになる。

 皆さんご存知、江戸在住で幕末の世情には(三十郎らよりは比較的)詳しい試衛館の皆さんです。どうぞ。


「ぶえっくしょィ! あーくっしょい」


「汚えなあもう……」


 近藤勇たちは、朝食の最中であった。変わり映えしない光景。メニューも毎朝一緒。それぞれの膳に飯とみそ汁と、目刺しが一匹横たえてある。土方歳三は顔を顰めながら、道場主の顔を見やった。


「夜更かししてるから風邪を引くんだぜ。薬をやろうか」


「いらん! だが眠れるわけないだろう! 今、日本が大変なことになってるんだぞ」


 土方の顔に近藤が食べていた米粒が飛び散った。

 沖田がそれを見てぷくくと笑った。次に思いついたようにわざとらしい咳払いをして、姿勢を正した。


「ぺるりも上様と謁見するなんて、偉くなったものですねえ! ……どうです若先生、私も世事に少々詳しくなりましたよ」


 自分で言ってもせわないのだが、それに対し口を挟んだのは、今や食客として試衛館に行き来している山南敬助。


「沖田君、謁見したのはペリーでなくてハリスです」


「え、ぺるりとはりすって別の人なんですか?」


 苦笑する山南の隣で、これ見よがしに大きなため息をついた若者がいる。その若者は「もうちょっと勉強した方がいいんじゃないですかねえ」と、その高い声でまるで大きな独り言、という風を装いながら味噌汁を啜った。


「いよいよメリケンは通商を迫ってるんです。そして及び腰の御公儀はあろうことかこれを受け入れようとしている」


 若者の名は、藤堂平助。歳は沖田より二つ下の十六歳で、この場では最年少。木綿の紋付きに袖を通し、その紋は伊勢藤堂家と同じ藤堂蔦である。この貧乏道場に似つかわしくない服装。色白で大きな目をしたその容貌も相まって、この中でも異彩を放っている。


「しかしその及び腰もどうやらここまで。他ならぬ天子様が条約の勅許に不認可のご叡慮を下されたのです。天子様が幕府にこうまで強くお出になるとは前代未聞! 勤皇の志を持つ者たちにとって、これほど痛快なことはありませんよ」


 山南敬助などは、心地よさそうに藤堂の言葉に一々頷いている。この二人は天然理心流を掲げる試衛館に出入りしているが、一方で北辰一刀流を学んだ同門でもあった。そしてこの時代、剣術の流派はそのまま思想にも結び付き、その人物の志に根を張ってゆく。

 すなわち藤堂と山南は、尊王攘夷派としては近しい間柄にあった。

才気あふれる最年少の言葉を聞いた、試衛館の若人たちは。


「総司、今日釣り行こうぜ」


「土方さんが釣りたいのは魚じゃなくて女でしょ」


「ぶふへへっ」と笑った近藤勇の口からまた米粒が飛んだ。

 藤堂は面白くなさそうである。せっかく俺が教えてやっているのに、もう少し真面目に聞いたらどうなんだ、とぶつくさ言っていると、目の前にあったはずの自分の目刺しが無い。隣に座った着流し姿の男が食べてしまったのだ。


「ちょ、永倉さん。何俺の勝手に食ってんですか」


「へ、タダ飯貰っときながら文句垂れるお前が悪いね」


 この頃は後の二番組長永倉新八もすでに試衛館に居ついており、試衛館はだんだんと賑やかになってきた。ぼろ道場の向こうから、騒がしい声や木刀のぶつかる音がいつも聞こえていた。

 と、このような情勢を踏まえて、カメラをぐるっと西へ戻そう。

 試衛館の長いやり取りが終わる頃には、谷三十郎たちもやっと念願の九州上陸を果たそうとしていた。

 誰より身を乗り出して岸へと急いだのは、意外なことに万太郎だった。

 これまではぶっきらぼうについてきて、たまに槍を振るって、また仏頂面でついてきて、たまに女を口説いたりしていたというのに、どうしたことだろうか。

 その脳裏にあるのは、かつて自分を一撃で叩きのめした大きな影。松山で負け無しだった万太郎は、ある日やって来た武者修行の男に完敗した。今も横たわる床の冷たさと共に、あの男の大きな笑い声がありありと思い出せる。


「さびなか、さびなか!」


 その男は、九州の訛りがあった。

 確かその名は、渡邊昇。


「あの男を倒さなきゃ、武を極めたとはとても言えねえ」


 過日の宿敵がいるやもしれない、未知の国。その土を踏んだ万太郎の胸には、ふつふつと闘志が沸きあがっていた。

 一方で、過日渡邊昇を一撃のもとに沈めた谷三十郎と、その頃の記憶すらない千三郎の二人は、足早に浜の白砂を蹴り上げる万太郎の背中を見つめながら首をかしげていた。


「何を急いでるんだあいつは」


「厠でしょうか」


「だから出航する前に行っとけって言ったのに」


 三人ははじめ、九州の玄関口・小倉へ入った。その名に違わず本州と九州を結ぶこの地は、三兄弟が見たどの町よりも人でごった返していた。賑わいに念仏をかき消される仏僧、それに気づかずぶつかり謝りもしない子供たち、同じくぶつかられ高い声でその子らに怒る町の女、彼女にどうにか一級品の小倉織に振り向かせようとする商人、隣の店で負けじと声を張る魚屋、名刀を見るようにして今日揚がったばかりの魚を検分する武士、それを押しのけて今晩のおかずを仕入れる中年の女、そうした往来の人混みで馬が引けない馬借。冬だというのに、夏真っ盛りのような熱気に満ちていた。

 歩くのもままならん、備中松山の国の全員が一つの町に押し込められたようだ! 

 三十郎はどうにか弟二人とはぐれぬようにして、人混みの中をとにかく歩いた。

 そうしていると、なにやらそこだけ人だかりがなく、ぽっかりと穴のようになっている空間があった。これ幸い、と駆けこんで、一息。北ばかりなのにどっと疲れてしまった。ふと顔を上げると、何やら見覚えのある嫌な顔つきの男が、嫌な満面の笑みを浮かべて、横断幕を一人で掲げていた。『尊王攘夷之同志谷三十郎君 小倉にようこそ』とある。


「待っていたよ! きっと来てくれるって信じていた!」


 武田観柳斎と谷三兄弟、二度目の邂逅であった。


 〇


 武田観柳斎は鼻を高くして、三人の前に膳を並べさせた。


「さあ、遠慮なく食べてくれたまえ! 荒波を越えて僕の言葉を信じてくれた君たちへの、感謝の気持ちさ」


 三人は一様に目を丸くして、並べられた漆塗りの膳に釘付けになっていた。


「この国は海の幸が何でも美味い! 山国育ちの舌が仰天して縮こまってしまうぞ!」


 万太郎はじろりとその目を観柳斎へ向けた。


「おいエセ講談師、何が狙いだ」


「おいおい、人がせっかく馳走してやってるんだから、素直に受け取りたまえよ。せっかくの海の幸が泣くぞ」


「目刺しだろーが!」


 三人の膳の上には、やせっぽちの目刺しが二匹ずつ口を開いて焼かれ、干からびていた。それでも満足気に自分の徳利に酒をなみなみ注ぐ三十郎は「兄貴!」と叱咤の声に思わず手を止める。この男は酒が美味しく飲めれば、肴に文句などないのだ。


「要件を話せ。俺たちに何をさせる気だ」


「いや何、今度は誰かを斬れとかそういう話ではない。会って欲しいお方がいるのだ」


 観柳斎は自分の目刺しをひょいと持ち上げ、尻尾の方から齧った。


「そのお方は、九州でも名の知れた尊王攘夷派の大先生。加えて今、大先生は同志を探してらっしゃる」


 目刺しを飲み込んだ観柳斎は、箸の先で三兄弟をそれぞれ指す。


「君たち、大先生の下でこの僕と奔走しようじゃないか」


 すでに酒を飲んで顔がほんのり赤い三十郎は、殊の外嬉しそうに「なんと」と声を上げた。これで名実ともに尊王攘夷の志士として活動することができるのだ。そうなれば自分の名声も高まるに違いない。


「つくづく武田殿はお優しいお方だなあ! 万太郎、千三郎、行くぞ」


「勝手に決めるな、俺は行かないぜ。やっと雪辱を晴らせるかもしれないってのに!」


「雪辱う? なんの話だ」


「忘れたのか兄貴! 渡邊昇だよ、渡邊昇! むかし武者修行にやってきて、うちの国の悪口ばっかり言ってた、嫌な大男だよ」


 三十郎がヒクッと眉をひそめた。同時に観柳斎も、ピクリと眉を動かした。


「……渡邊昇」


「兄貴が酔っぱらって倒した奴だよ」


「…………そんな名前だっけ?」


 万太郎はぶっ飛んだ。

 口を大きく開けて、直立不動の姿勢。奇しくも目刺しと同じポーズであった。


「そんな名前だったかなあ、武者修行に来た男のことは覚えてるんだが……加藤田……とかじゃなかった?」


「全然違う! わ・た・な・べ!」


 その時、武田観柳斎がすすす、と二人に歩み寄って、兄弟それぞれの手を握った。握るというか、さすさすとしつこく撫でていて気持ち悪かった。そして先ほどとは打って変わって、下からニンマリニマニマニマリンチョとした顔を持ち上げた。


「先生方! 先生方がそんなにお強いとは思っておりませんでした!」


「急に気味の悪い奴だな、何度も言うが俺は行かんぞ」


「いややややや、先生! そうも言ってられないんですよう!」


 実は、と観柳斎は講談の口調でつづける。


「近頃、この辺りでも尊王攘夷を唱える者が増えておりましてね? 特に久留米の方は、石を投げれば志士にあたる、といった具合なんでございますよ。でね、中には、大した志もないくせに口だけは大きなことを言って、自分は尊王攘夷の志士だから、金をよこせ、などという不埒な輩がおるんでございますよお! 町の者も大層困っておりましてね」


「俺には関係無い」


「その男、渡邊昇というんです」


 万太郎の薄い目が、ぱちりと開かれた。


「いや、まさか先生があの荒くれ木偶の坊と因縁がおありとは……もしよろしければ、この武田が案内いたしますが?」


「連れて行け。今すぐにだ」


「はい、よろこんで! ひひひ」


 千三郎は目刺しをぽりぽりと頬張っていた。確かに松山の家で出たものより、肉厚で脂ものっている。そんなことより、と彼は視線をそらした。そして、酔ってこっくりこっくりと舟を漕いでいる三十郎を「信じられない」という顔で凝視していた。


(渡邊という人が、あの万太郎兄上に唯一勝った人。その人に勝ったというわけだから……)


 千三郎は引き続き「信じられない」という顔でグゲフゴッと変ないびきを漏らした三十郎を凝視した。

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