第9回「極楽の在処 その③」

 久留米は、福岡と佐賀の境のあたりに在る小さな国で、小倉からは歩いて半日かかる。この国も備中松山と同様に、大河を動脈として栄えた。

 山国の渓流とは違い、筑後川は雄大に平地を流れている。

 政庁となる久留米城も筑後川に沿って建てられ、大河を引き入れて堀を満たしている。

 

 そんな久留米は今、大変な時期を迎えていた。

 と書くと、語弊がある。この時代は日本全国、どの藩もそれぞれ大変な時期を迎えていた。久留米もその一つだった。


「尊皇攘夷ッ」


 聞きなれた言葉が静まり返った街の瓦を揺らした。見れば若い侍が両替屋の店中でえらく威張って座り込んでいる。もちろん、着物は紺の久留米絣だった。


「その大義の為、金を出せと言うんだ」


 両替屋の主人はふてぶてしく頭を下げ、できかねます、と断っている。


「聞いたぞ、街の者から随分と金を巻き上げておるそうではないか。この国難の時に不埒千万。だったら俺が立派に使うてやろう。さあ、出せ」


 出さぬならば、と腰のものに手をかけた若侍の肩に、ぶっとい掌がのしかかった。

 振り向けば大男が退屈そうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。


「尊王攘夷と言っておるが、天保学連にも入っておらんだろ、お主」


「テンポ……え、何?」


 男は、ぐわし、と若侍の首根っこを掴み上げ、力任せに外へ放った。

 ひょろひょろの若侍は紙屑のように道端に投げ出され、両替屋の暖簾が風圧で躍っていた。

 両替屋の主人は腰を低くして、大男に歩み寄った。


「いや、渡邊様。まいど助かります」


「なんのなんの。さびなか奴らばっかりですから!」


 渡邊昇。草莽の志士として日本をめぐり、今は故郷の大村藩からほど近い久留米藩で、商家の用心棒をやっている。


「昨今は尊王攘夷と喚いて金をせびる志士が増えて、困ったものです」


「あんな奴らを尊王の志士とは呼びませんよ。志士とはもっと誇り高いものです」


「これは失礼。いや、渡邊様のような方々ばかりだと助かるんですがねえ」


 両替屋の丁稚が、盆に乗せた茶を運んできた。小さな顔についた大きな目をキラキラさせながら、覗き見るようにして渡邊の横顔を見ていた。

 ふと、渡邊の表情が曇った。その顔と盆の上とを見て、主人はすぐに丁稚に「あれも一緒にと教えたろう」と取りに戻らせた。しばらくして丁稚が持ってきたのは、黒糖の入った白磁の小壷だった。

 渡邊はにんまりと笑って、砂糖を茶にさらさらと流し入れると、それをごくんごくんと飲み干した。

 その様子を、物陰から見つめる怪しい男たちがいる。

 勿論、谷三兄弟である。


「あ~! 顔を見ると思い出した! だが武田殿の話とだいぶ違うぞ」と三十郎。


「仔細はどうだっていい。相変わらずの剛力……腕が鳴るぜ」と万太郎。


「お茶に砂糖……」と千三郎。


 そして渡邊昇は、先ほどの志士もどきが逃げ去った方を得意げに見やった。そこで、向こうの家屋から三人組が団子のように顔を並べてこちらを窺っているのに気づいた。遠くて顔は判然としない。


 さっきの男の仲間か。


 渡邊は腰の物に手を添えると、主人に目で合図した。主人も唾を飲み込んで、うなずいた。


「ではご主人、また何かあったら呼ぶように。某はこれにて」


 と、芝居がかった大声を張った渡邊は、ぶらぶらとした様子で辻を曲がってしまった。


「追いかけるか? 万太郎」


「うん、一勝負してくれるといいが」


 三人はすぐさま駆けてその辻へ行ったが、そこに渡邊の姿は無い。見失ったようだ。そう思った矢先、三人を大きな影が覆い、千三郎の身体がふわりと浮いた。背後には大男・渡邊昇が、千三郎の襟首をつかんでこちらを見下ろしていた。


「お主ら、さっきの野郎の仲間か」


 ごきん。


 言い終わる前に金的を蹴り上げた三十郎だが、妙な手ごたえ。渡邊は余裕な笑みを浮かべながら、己の股の頑強さを誇るようにぽんぽんと叩いた。


「むわはははは! 残念だったな、かつて卑怯な男に敗北して以来、某はこうして股に板を仕込んでいるのだよ!」


「わかったから早く弟を放さんか、このナメクジ!」


 ナメクジい? と、渡邊は顎に手をやった。何やら聞き覚えのある罵倒だ。そしてその言葉を聞くと、板で守っている筈の金的が疼く。

 その時、渡邊は気づいた。


「あ~~~~~~~ッ! お前、備中松山のでんでん侍ではないか!」


 渡邊は千三郎を下ろすと、三十郎の肩をぐわしと掴み、鼻がひっつくほどに顔を近づけた。


「お前、よくもあの時はやってくれたのう。おかげで板を袴の中に仕込んでおらねば安心して出歩けんようになってしまった。厠の時にどれほど不便か、教えてやろうか!」


「いらん! お主とて会って早々弟に無礼を働きおって! その傲慢さ、何も変わっておらぬではないか!」


「え、この利発そうなのが弟? あんまし似とらんとね。いや、というかこのご時世に兄弟そろって物見遊山とは、呑気にもほどがあるぞ、でんでん!」


「物見遊山ではなァーい! 尊王攘夷の大義を果たす旅路であァーる!」


 渡邊はそれを聞くや、仁王のような顔になり、肩を怒らせて三十郎の胸ぐらをつかみ上げた。三十郎はさながら、巨岩に引っかかった手拭いのようになっていた。


「貴様も尊王攘夷を語る偽の志士に堕ちたというわけか。そういうことならば容赦はせん。来い、成敗してやる」


「偽とはこれまた無礼な、望むところよ!」


「言うたな貴様、では行くぞ!」


「応!」


 三十郎は腕をまくると、万太郎の背後へと回った。


「だってさ! ゆけ万太郎!」

 一同ズッコケた。


 三十郎は渡邊昇と戦った記憶がない。かろうじて故郷を悪く言ったのを嫌悪した記憶があるだけなのである。

 反対に渡邊昇にはこの万太郎という男がわからない。

 それもそのはず、確かに万太郎は渡邊に敗れているが、その時彼は兄の三十郎のふりをして戦ったのである。渡邊にとっては「え、こっちも弟さん? 反対にこっちはそっくりだな。でもこっちの方がモテそう」と思う他に感想は無い。

 だが、その若い闘志に惹かれた。渡邊も諸国を武者修行した身。一目見れば、相手の腕前はわかる。この万太郎という男、単純な槍の腕なら兄より遥かに強い。

 そう気づくと、渡邊の武者としての自分がぶるりと奮えるのがわかった。面白い。


「おし、でんでん二号。ついて来い」


「次その呼び方したら殺す」


「ごめんね。いいから来い」


 そして二人は歩き出した。そして酒屋の暖簾をくぐっていった。

 勿論、三十郎と千三郎はズッコケていた。


「何やっとんだお主らはーッ!」


 渡邊昇は万太郎にお酌をしながら「だまらっしゃい!」と一喝。


「侍同士の決闘は常に命がけ。出会ったその日が別れの日になる。それゆえ某は、戦う相手には酒を振舞うのだ」


「溢れてる溢れてる、渡邊、手元手元。じゃあお言葉に甘えて一杯。んぐ、んぐ……美味い」


「お、だろ? 結構酒の趣味、あいそうだね。しかも肴も美味いんだ、ここは」


「ほう。まあ、あくまで決闘の前座だがな」


「無論だ! さあ飲め、俺も少しだけ飲む」


 そんなこんなでしばらく経った。

 三十郎と千三郎は、ごった返す店の外でひたすらに待っていた。ときおり賑わう客の声に交じって、万太郎や渡邊の大声が聞えていた。

 酒が進むほどに声が大きくなっているようだが、一向に彼らが出て来る気配がない。暴れている様子もない。いつまでここに突っ立ってればいいんだ、俺たちは地蔵かっ、と苛立った三十郎は、暖簾に首を突っ込んで覗いてみた。

 その時、谷万太郎と渡邊昇は、


「うおおおおおおん! なんと、なんという話だ! 理不尽にお家断絶、その上幼い弟を連れて、流浪の旅だなんて……ぐす、おえ、うおおおおおおおおおん!」


「うるさいな。膝枕してる最中に叫ばないでくれる?」


「何も言うな、何も言うな万ちゃん! 今日は呑もう! それがしに奢らせてくれ!」


「の、ノボさん……膝固い」


「万ちゃん……いや、万ちゃん殿! なんとしても尊王攘夷の大義を果たして、お国に……お国になんとしても帰られよ! 某も力になる! だからせめて……」


「せめて……?」


「あの、利発そうな弟さんに、飯を腹いっぱい食わせてやってくれえええええ! 細すぎて心配だ、うおおおおおおおおおおおおおおおん!」


「なんだ、あんたも結構いい奴じゃないか。あんま泣かないでね、顔べしゃべしゃだから」


 こんな感じになっていた。

 その時、三十郎の肩からひょっこり顔を出した者がいる。撫で付け髪が頬にささって鬱陶しい事この上ない。武田観柳斎だった。


「気持悪っ。え、あれどういう状態なのかな」


 観柳斎としては、仲間として連れて行く前に憎き渡邊昇をぶちのめして欲しかった。あわよくばそれで動けなくなっている渡邊昇に蹴りの一発でもお見舞いしようと考えていたのだが、目の前の光景はその計算から大きく外れていた。


「なんか仲良くなったみたい」


「え、決闘は? するって言ってたよね?」


「私に聞かんでくれ。というか、我らを嗾けといてどこへ行っていた?」


「いやちょっと、教え子が怪我をしたようですので手当にね」


 その頃、酒屋の近くで、昼間に渡邊昇にぶん投げられた若侍が全身を包帯にくるまれて横になっていた。


「くうう~……志士というのはあんな化物たちと戦わなければいけないのかあ……」


 彼と谷三十郎たちは、一度会ったことがある。玉島で武田観柳斎の下に集った浪士たちの一人、吉次郎だ。三十郎の火薬のハッタリで一度は逃げ出した吉次郎だが、故郷の村を出た時の大志を思い出し、再び武田の後を追い、今はその下で志士をやっている。

 昼間の事も、元をただせば武田に資金調達を命じられてのことである。


「しかし、武田先生の下で吉次郎は必ず倉敷村へ錦を飾る! 待っていなさい、村の皆さん!」


 その時、もの影で鼠が顔を出した。吉次郎は、何やらピョウョエエというような悲鳴を上げ、天井にへばりついた。


 この臆病な男、倉敷村の吉次郎。本名は和栗吉次郎。


「……あ、やばい、どうやって降りよう」


 実は彼もまた、谷三十郎らとともに新選組の隊士としてその名を歴史に遺すことになるのだが……


「どうやって降りようこれ、どうしよう!」


 いささか無名すぎて誰も知らない。

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