第9回「極楽の在処 その④」
この頃、全国に尊王攘夷の志士たちが動き始めたことは承知の通りだが、同時に異国との戦支度にも関心が向き始めた。特に剣術は一大ブームとなって、武士だけでなく庶民も剣を学びに道場に通っていた。
それは久留米においても同様で、城下のどこを歩いても竹刀のぶつかる音と若者の雄叫びとがあちこちで聞こえてくる。
その中の一つの道場を見れば紺の胴着姿をした谷三十郎が、熱心に稽古に励んでいた。撃剣師範の父を持ち、本人も直心流の遣い手として知られる谷三十郎。実は剣を持たせればしっかり強い。
「全員なっとらんぞ!」
と、三十郎が声を張る。板間にはその道場の門下生が三人ほどへたり込んで、腹でぜいぜい息をしていた。
「とにかく気合が足らん! かかっていこうという気概がない!」
この漠然としすぎている三十郎の指摘をされるまま、立てそうなら立って、また倒されて、また漠然とした説教をされる。門下生たちにとってはたまったものではない。
するとその様子を見ていた、同じく胴着姿の万太郎がふらりとやってきて、それぞれを座らせた。
「皆剣を習い始めたのは最近なんだ、技量の差は当然だろ。あんましイジメるのは趣味悪いぜ」
「俺が嫌われる言い方をするな! そもそもこやつ等は異人を斬るために剣を学んでおるのだ。浪人一人斬れなくてどうする。と、渡邊殿も言っておったではないか」
「途端に仲良くなりやがって……」
渡邊昇は知り合いの剣術道場に三人を紹介してくれた。故郷を追われて以来旅を続けて来た彼らにとって、そこは久しぶりに腰を下ろせる居場所になっていた。
「とりあえず、兄貴はもういい。こいつらは俺が教えてやるから」
門人たちが「万太郎先生ぇ~」と縋りつく。
谷万太郎という男は、弟子を育てるのが上手かった。それはこの次男坊が常に彼らを観察して、世話を焼いて教えてやるからだった。そしてその気質は備中松山にいた頃、牛麓舎という家塾を開いていた山田方谷の手伝いをしていたことも無関係ではないだろう。
谷万太郎はこの時、初めて道場主兼教育者としての第一歩を踏み出し、それは彼の運命の歯車を大きく回していくことになる。
まあ、そんな後のことはどうでもいいので置いときましょう。
今日の主人公はこっち。
神聖な道場の喧噪は、千三郎には関係ない。久留米に来てからの日課は、読書、町の観察、折り紙、雲の観察、風景の観察、蟻の観察……。
「お前、いつも一人でいるなあ」
蟻の行列から視線を上へむけると、いがぐり頭で猿のような少年がこちらを覗き込んでいた。その後ろには彼の朋輩が刀のような鋭い目つきでこちらを窺っている。
「金平、こいつ余所者だよ」
「いいじゃんか、兵は多い方がいいだろ」
金平という少年は、朋輩を手繰り寄せる。
「俺、
「……」
「お前の名前も教えてくれよ」
「……へ」
「へ?」
「平素より大変お世話になっております」
金平と真文がズッコケた。だが千三郎はボケをかましたワケではない。
彼の半生を振り返ってみると、同世代の子どもと一緒にいたことが全くない。常に年上の大人たちと過ごしてきた。それゆえこういった場での喋り方が分からない。
「先生みたいな喋り方だなこいつ!」
「変なやつだ……」
「そこが気に入った! おい、俺たち今日は隣村の物見に行くんだ、お前も来いよ」
「おい金平、私たちは遊びに行くんじゃないぞ」
「わかってるよ、あれだろ、先生からの使命を果たすためです、な!」
「それ私の真似か? だとしたら蹴るぞ」
「使命は大事だ! だけど、楽しく使命を果たすのがもっと大事だ!」
千三郎は流されるまま、手を引かれて二人に従った。はじめての感覚だった。兄に連れまわされている時よりずっと気楽で、おまけになんだか心がむずがゆい。それと同時に不可解だった。この人はどうして道端に生えてる花を食べたり、意味もなく歌いだしたり、落ちてる枝を刀に見立てて振り回したりするんだろう。
「驚くよな、馬鹿すぎて」
真文が初めて話しかけてきた。やはり目が刀のようで怖い。
「馬鹿で何も知らないんだよ、豊臣秀吉だって知らなかった」
金平が振り向いて、真文を枝で指した。
「普通は知らねえの! 知らなくたって生きていけんの!」
「いや、それでも豊臣秀吉は知ってる」
「知らん! 千三郎も知らないよな?」
いや、どこかで聞いたことがあった。父も兄も、学問の際に歴史の事を語ってくれた。しかし千三郎の脳裏にある『豊臣秀吉』の名前は、隻眼で笑う熊田恰の記憶と共にあった。
「高松のお城に水攻めをした人ですよね」
真文の刀のような目が見開かれた。開いてみると長い睫毛の奥に瑠璃色の瞳がきらきらと光っていて、案外可愛らしい。
「そう! 備中高松の水攻め! 知ってる奴は初めて見た! もしやお前も武将が好きなのか?」
「清水宗治が好きです」
「渋っ」
どうなることかと思ったがこの三人、案外仲良くなれそうである。
金平と真文の二人は、同じ師の下で学んでいるらしかった。二人が口にする、先生、の言葉の奥には同じ人物の顔が浮かんでいる。千三郎には勿論、見当がつかないが。
その先生は、わけあって自宅から出ることができない身にあるらしい。そのため自分たちが目となり耳となって、先生をお助けするのだ、と真文は言う。
今回の物見もその先生からの指示らしく、特に金平は「斥候だ」と勇んでいる。それは城下のはずれにあるあばら屋を調べよ、という子供たちには魅力的すぎるもので、千三郎も同様になんだかそわそわとする気持ちを抑えて歩いた。
道中、金平が斥候をやっていることは絶対バレちゃいけないんだ、と教えてくれた。それを証拠に道中顔見知りの町の人々に声を掛けられても、上手い具合にはぐらかして歩く。
「千三郎もそうするんだぞ」
千三郎はわくわくしてうなずいた。
すると「およ」と擦れ違った三人を振り向き、男が声をかけた。
「千、どこへ行くんだ」
それは道場の仕事を万太郎にとられ、仕方なく城下をぶらついていた三十郎だった。三十郎は金平と真文に気づくと、はたと口元を覆って涙を浮かべた。
「せ、千に友達ができてる……!」
思えば、いつもいつも彼は一人だった。自分たちは家族として接しているが、その実は天涯孤独の淋しい子なのだ。近所の子供たちにも口を開こうとしなかったあの千三郎が、同じ年ごろの子たちと往来を駆けている。三十郎の鼻にワサビにも負けぬツ~ンとした痛みが上って来た。
そんな三十郎をよそに、金平はあからさまに、拙い、という顔をして後ろ手で真文の袖を引いた。真文がそれに応えて、少し彼に耳を寄せた。
「おい、余所者の威張り野郎だぜ。どうする」
「無論、隠し通すさ」
「そうじゃねえよ.。こいつ、弟なんだろ?」
金平はそういって、目で千三郎を指した。自分から誘ったくせに。
千三郎は千三郎で困っていた。兄はいつものへらへらとした呑気な笑顔で、腰をかがめている。そして、いつもの調子で「どこへ行くんだ」と聞いてきた。途端に胸がキューっとして、千三郎は動けなくなった。
嘘って、どうすればいいんだろう。
思わず袴を固く握っていた。
どちらの言葉も出てこなかった。
すると、誰かがぐいと後ろへ腕を引いた。兄の顔が遠ざかる。
「城下を案内してあげようと思って」
真文はそう言って笑った。刀のような目を細めたものだから、まるで針のようになって、お稲荷様の顔になっていた。
「そうかそうか、うちの弟をよろしく頼みますね」
「え、は、はい……」
三人はすぐさま逃げるようにして駆けだした。
背後で三十郎は「暗くなる前には帰れよ」と声を張っていた。
「な、真文ってこういうの上手いんだぜ」
「よせよ。それにしても千三郎の兄上、道場の外だと結構普通だな……」
「……」
千三郎は、胸のキューっが治らない。
初めて兄に、嘘をついた。
二人はなんてことない平気な顔をしている。これから兄が自分に笑いかける度に、この痛みはやってくるのだろうか。それ以上考えるのはなんだか怖くて、二人の後を夢中で走った。
〇
「君は一体どこをぶらぶらしとったんだーッ」
観柳斎がしかめっ面で顔をずずずいと近づけた。堆い鼻が、自分の顔に刺さりそうだ。しかし三十郎には、この男にこれほど詰め寄られる理由が分からない。
千三郎たちと別れた三十郎は、ふと酒が恋しくなった。久留米に来てまだ日は浅いが、上手い酒を出す店なら既に知っている。善は急げ、と軽い足取りで近くの料理屋へ向かう最中、突如として往来でこの男が詰め寄って来たのだ。
「武田殿、我らは何の約束をしておったっけ?」
「何い⁉」
「いや、その、本当に憶えておらんのだ。あ、ひょっとして、私を弟と間違えておらんか?」
「誰が約束などした? 僕の都合で探してただけだぞ」
三十郎が秋空めがけてズッコケた。
天高く、ズッコケる秋。なんのこっちゃ。
観柳斎は三十郎を、ある男の下へ案内してやる、と恩着せがましい声色で言った。その男こそ、九州の尊王攘夷派の志士としては無くてはならぬ傑物であり、人は彼を太平記の楠木正成の再来であると言う。
「その名も、
真木和泉。諱は
「真木和泉だと……?」
幕末に詳しい読者諸君なら、名前を聞いたことはあるだろう。
「何だその反応は。……まさか、大先生と知り合いなのか?」
後にその「大先生」は、長州藩と手を組んで京へ攻め上り、禁門の変を巻き起こす。
そして、谷三十郎は……
「いや知らん」
「ズコーッ! ベタなボケで僕をズッコケさせるな!」
この通り、何も知らないまま、尊攘派の急先鋒たる傑物に会おうとしているのだった。
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