第9回「極楽の在処 その⑤」

 千三郎の前髪を心地よい秋風がふわりとかき上げた。風のする方を見れば、紅葉の燃えるような山があった。故郷の山はごつごつと空にむかって聳えるようだったが、こちらは静かな波のようにゆるりと寝そべっている。

 金平はずんずんと先頭を行きながら、その山のふもとを目指した。久留米の辺境であろうそこには、朽ちた神社への参道がある他に、およそ人の暮らしている形跡をみることができなかった。そして樹木の間を縫うようにしてできた獣道の先に、そのあばら屋はあった。

 簡素な竹垣は根本から枯れ草が延び、黄色い土塀やばさばさの茅葺も、ところどころ穴が開いたり崩れたりしている。冷たい風が吹き込む様は、恐ろしいぐらいに侘しかった。

 三人はごくりとつばを飲んだ。

 そして、満を持して真文が言った。


「じゃ、私は見張りをやっておくから」


「怖気づくなーッ! いつも直前で怖がりやがって!」


「いや、これは戦術上必要な役割であって」


 その時、背後の草むらが音を立てて動いた。その時の真文たるや。兎のような声をあげて、あっという間に来た道を引き返して見えなくなった。


「ああ見えて怖がりなんだよ。もういい、俺たちだけで行こうぜ」


 千三郎はこくりと頷いて、草陰から飛び出してのそのそ歩いている狸を見つめていた。


「いいか千三郎、怪しい奴が居たらすぐに教えるんだぞ」


「はい。怪しい奴というのは、どういう奴なのですか」

 金平がズッコケた。


「お前は本当に物を知らないな。怪しい奴は、怪しい奴だ」


「どうやって見分けるんです?」


「見分けるも何も、見ればわかる」


「なんで?」


「怪しいからだ」


 その時、背後の草むらが音を立てて動いた。


「金平さん、後ろに」


「狸はもういいから。行くぞ」


「一度見て欲しいんですけど」


「なんだよもう、俺さ、足引っ張られるの嫌なんだよね」


 振り向いた金平がギョッと目を見開いた。明らかに挙動不審な男が独り、少女を連れてこちらを凝視していた。


「あれは怪しい奴でしょうか。もしくは怪しいと言って差し支えないでしょうか」


 男は娘であろう少女を自分の背後に回らせると、「怪しい奴らめ」と声を張り上げた。その時千三郎は初めて「怪しい奴とは私たちの事だったのか」と気づいたのであった。


 〇


 谷三十郎は、必死に父の言葉を思い出そうと頭を回転させていた。

 思い出せ、思い出せ三十郎。父上はあの時、なんと言っていた。

 いつかお前も城勤めをするであろう、と。

 そしてお前は、自分と同じで緊張しやすかろう、と。


「よいか三十郎。そういう時はな、こうするのだ。掌に……」


 掌に?


「こうして字を書いて、パクっと飲み込むのだ」


 …………。


 武田観柳斎は、谷三十郎が妙な様子なことに気がついた。


「谷君。緊張するのは分かるが大先生の前ではしゃんとしたまえよ」


「だから……」


「だから?」


「その字が何なのかが問題なんじゃろが~ッ!」


「そうとうキてるらしい」


 三十郎が緊張しているのは勿論、会ったことの無い真木和泉に会うからである。武田観柳斎が執拗にその男を持ち上げることがますます己を緊張させる。幽閉先らしいこの小屋も、四方を閉め切られて洞窟のように暗く静かなのも益々緊張させる。

 ほど近い寺の鐘の音が虚ろに響いている。

 真木和泉が、いよいよやってくる。


「いや、やってくるというかずっとここに居りましたよ」

 谷三十郎と武田観柳斎は仲良くズッコケた。


「だ、大先生、居られたのですね……」


「蟄居中ですからね。嫌でもここに居ますよ」


 真木和泉は、静かに微笑みを浮かべて座っている。

 三十郎はこの男の事を、観柳斎から聞いていた。過激な尊王攘夷思想を軸とした急進的な藩政改革を咎められ、四年前に幽囚の身となった。しかしその最中にあっても弟子を募り、「天保学連」という一派を形成するという、とんでもない男である。

 その傑物が、楠木正成にも喩えられる風雲児が、今目の前に座っている。初めて目にした真木和泉は、思ったより柔和な雰囲気の男だった。色白で眼が糸のように細く、しかしその薄めた瞼の奥で炯々と光る瞳が、三十郎を捕らえて離さない。

 観柳斎がお得意の講談師口調で三十郎を紹介するのを、相槌もなくジッと聞いている。いや、観柳斎の盛りに盛られた紹介など、はなから耳にしていないのかもしれない。ただ三十郎の指の動き、息をする時の鼻のふくらみ、まばたきした時の睫毛の揺れ、それらすべてを見抜かれているようだ。


「君は」


 その柔和そうな見た目に似合わず、重みのある声で真木は続ける。

 観柳斎はそれ気づかず、谷三十郎との友情を語り続けている。


「君は、何故ここへ来たんですか」


 そんなもん、こいつが呼んだから……と自分を呼び出したインチキ臭い軍学者に目をやる。

 観柳斎はそれに気づかず、谷三十郎との熱い決闘を語り続けている。


「武田君の同志で、尊王の志士と聞いています」


「ええ、まあ」


「谷家と言えば板倉家の由緒あるお家柄。その御曹司がどうしてここへ?」


 目を丸くした三十郎に、真木和泉はさらなる微笑で応えた。


「見ての通り私はこの部屋から出られませんが、外のことはすぐにわかるんです。無数の目と耳がありますからね」


 恐ろしい男だ。こんなに優しそうな顔をしているのに、こんなことを平気で言って来る。いつでも監視されているということじゃないか。これが現代の楠木正成。この男に嘘は通じない。


「実は我々、もう板倉家の者では無いのです。その、お家断絶になりまして……」


 お家断絶、と聞いた真木和泉ははじめてぱちりと目を開いた。そしてその口元を指で女々しく隠した。三十郎は勿論無自覚だが、初めて真木和泉の興味を引いたようだった。


「一体何をすれば、板倉公ほどの御方の顰蹙を……」


「言えんのです」


 命に代えても、と付け加えた三十郎だが、真木は納得しそうにない。


「お家断絶と言えば、武士にとっては何よりお辛い事でしょう。それこそ死んでしまいたくなるぐらいに。しかしあなたは生きていますね」


「死ぬのはやめたんです。どうも、死にきれなくて……」


 そのやりとりから真木は貝のように押黙って、三十郎を観察しはじめた。といっても、じろじろと隅々を見るのではない。ただジッとまっすぐに目の奥の奥、一番奥を覗いてくるのである。

 不思議と三十郎も、この奇妙な男から目を離せなかった。

 しばらく、二人が見つめ合う妙な時が流れた。


「……その思いとどまった理由こそ、お家断絶の原因か」


 真木は何でもないように呟いて、また元の能面顔に戻る。三十郎の驚き顔にもさして言葉をかけない。してやったり、と思っているのか、それともこの表情すらも想定通りなのか。どちらにせよ三十郎は、この男が只者ではないことに気づき始めていた。

 この男についていけば、あるいは尊王攘夷の志士として名を馳せる日も近いのではないか?

 三十郎の胸に、部屋にある蝋燭よりも小さな野望の灯が揺れた。

 そして真木和泉は、三十郎を今宵の会合へ誘った。意外な顔をする武田観柳斎に目もくれず、真木はつづけた。


「中秋の名月を見ながら、語り合うのです」


 そう語る彼に、三十郎は首を縦に振ってこたえた。

 当然、俳句でも読みそうな風流な会合は表向きで、実際は国事についての陰謀を巡らせるのであろう。そして当然、三十郎はそのことを承知で飛び込んだのである。


「月見酒とかって出ますか?」


「お出ししましょう」


 え、当然承知だよね? ねえ?


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2024年12月20日 07:00
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神明蒙昧晦行先(かみもぞんぜぬつごもりのゆくさき) 谷三十郎(仮) @tani30rou

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