第4回「独りぼっち その⑤」
谷三十郎は発狂して飛び出して行った。
ふと出会った熊田恰が鼻の下を擦って「たまには千と遊んでやれよ」と笑いかけると、三十郎は不気味な引き笑いと共に恰の装束を掴み震え声で言う。
「ちょっと思いついたのですが、わたしが、殿の養子に入れば、わたしは姫様の親戚ということになって、それは結果的に結ばれるのと変わらなくないですか?」
「もう一回言ってくれ。いややっぱし良い。聞きたくない」
さて、話を千三郎に戻そう。
千三郎はぽつんと一人残されてしまって、賀陽に出された菓子を食べている。梅の形をした、ほんのり色のついた練り菓子であった。とびきり甘いのも幼い千三郎は気に入ったが、なにより心地よい香が鼻から抜けるのが気に入った。菓子は山のようにある。
子供のくせに遠慮がちに顔を上げる千三郎に、賀陽は笑いかけた。
「気にせずどうぞ、口実に使ったお詫びと思ってください」
千三郎には口実云々の道理はわかりかねたが、なんにせよ菓子を食べられるのが嬉しかった。家では滅多にそういう物はでない。
菓子を夢中で食べながら、つい思わず言葉が出た。
「いいなあ」
曇りない本心であった。しかし、賀陽の表情はどこか影がさしている。
「私にすれば、あなたの方がよほど羨ましい。肩が凝るのですよ、ここで暮らすのは。喋り方だって」
賀陽は少し姿勢を崩して、いいわねえ、あなた、と千三郎に微笑んだ。
「三十郎が兄上なら、なんにも退屈しないでしょ。遊びに行くととことん付き合ってくれるし、たまに空回りするのも面白いし」
千三郎が首をひねった。この女の人は一体誰の話をしているのだろう。兄は全然遊んでくれないではないか。そんな暇があったら学問をしろ、と叱るし、読みを間違えると怖い顔をするではないか。
賀陽は千三郎のそうした表情には気づかず、一人でしゃべり続けている。身の上話など、道理のわからぬ子どもにする話ではない。どうやら、誰かに聞いてほしいだけのようである。
「そのお菓子は、美味しい?」
ぴたりと動きを止めた千は、つつ、と視線をそらして、こくりと頷いた。
「大坂から取り寄せた品なのです。大坂をご存じ?」
松山から、もっと言えば谷家の屋敷からろくに出たことの無い千三郎は、かぶらを振る。
それを見た賀陽は、渡りに舟とばかりに喜んで、いそいそと文机から一枚の紙を取り出した。床に広げると、千三郎の身丈ほどはあろう大きさである。日本地図であった。
この時代、未だ精密な日本地図は軍事機密として取り扱われている。伊能忠敬のそれなどは、幕府が公式に管理する機密文書である。そのため賀陽の絵地図は、俗に「行基図」と呼ばれるような、国の名前と位置が大まかにわかる程度の簡易的なものである。
その簡易さが、かえって賀陽の想像を膨らませた。さらりと描かれた筆の一筋に、彼女は大河や、山脈や、海辺を見た。そこにはどんな花が咲いているのか、どんな人がいるのか。侍女を質問攻めにして、よく困らせた。そうして気づくと日は暮れていて、自分は結局城から出ないまま、一日を終えている。四方を囲む山を見上げる度に、その向こうにある風景に焦がれていた。
賀陽は千三郎に、日本の各地を指差して教えた。千三郎は真剣にそれを見ていた。
「内緒ですけどね」と賀陽が声を潜めた。
「私、板倉の姫様になんか生まれたくなかったわ。こんなに儘ならない暮らし、窮屈で仕方ないんだから」
千三郎は意外だった。このお菓子をこれほど持っているというのに、この姫は不満らしい。もしも自分が兄にこんなことを話せば「ゼイタクを言うな」と怒鳴られることだろう。
「ふふ。いい年をしてこんなに子供だから、これまで貰い手が無かったのよね」
障子ががらりと開けられる。熊田恰である。千三郎を迎えに来たのだ。
「熊田、あなたが連れて来たのですか?」
「でんでんの三十郎が悪いんですよ。千にかまってやらんから」
「その、でんでん、とは何です。城の者も皆言ってますけど」
「でんでん虫ですよ。生真面目に家を背負って歩く姿、そっくりでしょ」
「ああ、それで……ふふ」
賀陽は、先ほどより表情が晴れた。
帰り道、門の前で兄が待っていた。うな垂れた様子の兄の背に、熊田が張り手を見舞った。兄貴と帰れ、と熊田は自分の手を離す。
兄は居心地が悪いように頬を掻くと「負ぶってやろう」と意外なことを言った。
「昔、よくしてやったろう」
記憶に無い。
いつも厳しくされてばかりで、負ぶわれるどころか手を繋いだことも無かった。
それでも、兄が背を向けてしゃがみ込むので、乗りかかった。
二人は、夕暮れの城下を歩いた。
兄の大きな背中は、なんだか無性に泣きたくなった。
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