第4回「独りぼっち その④」

 千三郎にとって、その日は忘れ得ぬ日となった。


 騒ぎを聞いた勝静は「その童を一日侍らせよう」と思いつきを言って、千三郎を近習役見習にしたのである。千三郎は幼童こどもながらに中々の美男子ぶりで、小さな鼻がツっと上を向いて、雪のように白い頬が桃色に紅潮している。ちいさな裃に袖を通した姿は、大人の誰もが顔を緩めてしまう可愛らしさである。


 熊田恰は後に この日の勝静を指して「石田三成を召し抱えた太閤と同じく、正に名将の器である」と、得意のたとえで讃えている。


 勝静は深謀遠慮の人であったが、稀にこうして子供のような純粋さ、好奇心を持ち上げることがあった。ただ熊田恰は別として、多くのことを無難になあなあで済ませたい松山藩士たちにとっては、この殿様ほど厄介なこぶは無かったろう、と思う。


「殿」と三十郎は遠慮がちに声をかけた。我儘わがままが通ってご機嫌な勝静は鼻歌混じりに返事をした。


「殿にどのようなご迷惑をおかけするか、分かったものじゃありません。今日はこの者は私が連れて帰りますゆえ……」


「構わん。……おお、そうじゃ」


 足を止めた勝静。近習たちはそれに合わせ、跪く。千三郎がそれを真似する姿は、奥方たちが黄色い声を上げるほどに可愛らしい稚児姿だった。

 さて勝静は「谷三十郎、といったか」と、初めて名前を呼んだ。三十郎は心臓が飛び跳ねている。


「お主、なぜ長男が三十郎で、次男が万太郎で、その末の弟が千三郎なのだ。順番がめちゃくちゃではないか」


 思わず、はあ、と言ってしまった。というのは三十郎自身、そこの詳しい所を聞いたことが無かったのである。というと若干の語弊がある。一応、隙を見て父に訊ねたことはあった。しかしその度「そねえにこめえことを気にするな」と一蹴されていたのである。ただ、それをそのまま言う訳には絶対にいかない。


「三十郎も知らないのですよ」


 鈴の音のように凛とした声がする。振り向くと騒ぎを聞きつけた賀陽姫が居た。


「かつて義兄上と同じことを訊ねましたが、その時もこうして困っておりました」


 賀陽姫は、このお稚児をお借りしたい、と言った。心もとないなら兄の方も参れ、とも言った。三十郎は即決した。どうにかしてこの場を逃げてしまいたい一心だった。

 それから近習たちの内で、三十郎の評判は前より酷くなった。弟を利用して姫様に取り入るとは、佞臣ねいしんの極であるということだった。


 板倉家の姫君・賀陽。

 今年で二十四。当時では行き遅れである。


 父は先代藩主板倉勝職。現藩主勝静は、賀陽姫の姉に婿入りする形で養子となった。仲は、さほど親しいとは言えない。勝静は江戸と松山を行き来し、藩政改革や黒船来航の諸事で多忙とあっては、距離を詰めるような機会がない。互いに「義兄上」「賀陽殿」と遠慮がちに呼び合っている。

「男勝り」というほど豪放なわけではないが、かつては三十郎を小姓のようにして連れまわしたお転婆である。


「実は自室へ呼んだのは、お稚児のことじゃないんです」


 思い詰めたような賀陽に、三十郎は在りし日の西瓜の重みを想起した。

 そういえば、西瓜の返事がまだだ。

 と、相変わらず奇妙なことを考えていた。あの日以来、西瓜を渡すことに簪のそれ同様の意味があるのだと、勝手に思い込んでいるのである「私もなんとなく、そうではないかと思っておりました」


「こちらもすぐに伝えるべきだったのですけれど、事が事でしょう? 時期を見ているうちに、こんなことになってしまって」


「滅相もございませぬ! して、その、返事は……?」


「……お受けしようと思います」


 後の新選組幹部・谷三十郎、春来たる。

 菜の花が広がり、その野原を蝶が無数に舞っている。古めかしい梅も紅い花をつけ、その幹でうぐいすが歌っている。


「ですので三十郎、お別れです」


「はい! この谷三十郎、一生かけて姫様を…………え?」


「ですから、私は予定通り将軍家の遠縁の家へ嫁ぎにゆきます。なのでお別れです」


「す、西瓜は……?」


「西瓜? ごめんなさい、何の話?」


 後の新選組幹部・谷三十郎、春終わる。

 菜の花も蝶も尽く吹き飛ばされ、梅は根本から折れて幹ごとぶっ飛び、うぐいすは全部死んだ。

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