第4回「独りぼっち その⑥」

 備中松山の町家は、どことなく京の趣きに似ている。


 どの家も厨子二階ずしにかいをこさえて、そこに虫籠窓むしこまどを開けている。備中の小京都、とも呼ばれる。万太郎が通った料理屋もその一角にある。


 その娘が「どこの子だろうね」と首をかしげている。ふらりとやって来たその子供は、店の板塀を這う蝸牛を、しゃがみ込んで見つめている。先ほどからこのまま、石のように動かない。

「ふうん」と娘はその子の裾を引っ張った。嫌がらない。夢中になってそれどころではないようだ。メダカ模様のいい着物である。同じ木綿でも、縫い付けて着まわしている自分の者とは大違いだ。


「お侍の子かな」


 子供は無口で、ほとんど口を開かない。しかし話は聞いているようで、たまにぽつりと言葉を放り投げてくる。


「へえ、千三郎ての。三郎ってことは、三人兄弟?」


 子供はうなずく。綺麗な顔である。娘はこの子の兄二人、千太郎と千次郎はさぞ美しい顔立ちなんだろう、と一緒に蝸牛を見ていた。

 隣の建具屋の細君が暖簾から顔を出して「まあ」と可愛らしい光景に思わず声を出した。料理屋の看板娘が、千三郎の頭を撫でて「でんでん虫はね、いいもんなんだよ」と笑っている。


「あんた、その子谷様のとこの子だよ」


「谷様? 谷様って、万太郎様んとこ?」


 ということは、この綺麗な顔の子の上二人が、騒々しい三十郎と仏頂面の万太郎ということではないか。


「あそこの旦那さん、亡くなる前にいい仕事してったねえ」


「それが、どうやら訳ありみたいよ。あそこの奥様、この子が生まれる前に全然お腹が大きくなかったんだって」


「それじゃ……」


 二人が振り向くと、もう子供はいなかった。


 板塀を蝸牛が這い上っている。

 板塀を蝸牛が独りで這い上っている。


 山中に甲高い男たちの声が響く。そっちへ行ったぞ、と指された先に目をやれば、岩のような猪が矢のように走っている。背に一本の矢が刺さっているが、浅い。むしろそのせいで暴れている。


 この日、藩主勝静は狩に出ていた。


 国境警護を命じた下級藩士たちの実情視察も兼ねてのことである。その時、暴れ狂って右も左もわからぬ猪が、再び向きを変えて突進した。その先には、馬上の勝静がいる。


「殿!」


 と真っ先に飛び出さんとしたのは、旗奉行として板倉家の軍旗を手にしていた三十郎だった。しかし、慣れぬ山道で足を滑らせてしまい、藪の中へとひっくり返ってしまった。


「お、お、お」


 と至って冷静な勝静の前に躍り出たのは、熊田恰。

 大きな弓を太い腕で引くと、ちょうど弓弦がひらがなの『つ』のようにひん曲がる。


 びゅ。


 放たれた矢は猪の眉間に突き刺さり、その巨体はどうと音を立てて倒れた。

 昼下がり、留守居役のご家老が顔を出すと、皆は熊田に喝采の拍手を送っていた。


「流石、熊田殿」

「お手柄でしたね」

「一番に飛び出したのが熊田殿でよかったですな」

「よく片目でアレだけ見事に狙いを」


 と皆が言うのを、熊田は酒で赤らんだ顔で受けていた。

 一方、ご家老が宴の隅に目をやると、三十郎が独りでぽつりと座っている。料理を出す下人がふとやってくる。


「旦那、羽織のここ、破れてます」


「ん、ああ……」


 谷家の上下対い蝶。その紋付き羽織が、草や砂まみれになり、あちこち破れている。ご家老は鶴のような首をうんと上へ伸ばして、三十郎を見下すようにして目を鋭くさせている。

 刺すような視線に、三十郎も気づいた。


「おお、これはご家老! いやはや、かような有様でお恥ずかしい次第でございまして!」


 お道化た三十郎の顔に影がかかる。ご家老がのしのしとこちらへ歩んできたのである。ご家老は息をすぅと吸って、甲高い怒鳴り声をあげた。

 夏の陽が、山向こうへと落ちてゆく。空が茜に色づいてゆく。

 万太郎は、母の背をつついた。今朝は狩りに行くのだと張り切っていた兄のあの様子は、どうしたことだろう。鴉の声を聴きながら、ずっとこちらに背を向けて、中庭を見ながら座っている。一言もしゃべらない。


「ご家老様に叱られたんですって。ヘマをしたのにヘラヘラして、と」


「…………ふーん」


 ため息をつく三十郎がふと隣を見ると、千三郎が同じように縁側へ正座している。


「兄上。でんでんと言われましたか」


 珍しく、千三郎の方から口を聞いた。三十郎は少し戸惑う。


「まあな。とろくさいでんでんじゃと、嗤われてしもうた」


「よいことを聞きました。でんでん虫は立派なのです。大きな家を背負っています。一人で。それと槍も持っています。二本も」


「……そうか」


「焼いて食べるとカンの虫にもよいそうです」


 思わず「ぷ」と笑った三十郎は「そうか、そうか」と千三郎の頭を優しく撫でた。

 

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