第5回「死に損ねた男 その①」


 小さな大事件が起ころうとしている。


 それは決してこの国の未来を

 

 左右するものでは無いが、


 確実にある一家の運命を変えてしまう。


 〇


 静まり返った夜の御殿。


 延々と暗がりが続く廊下のうち 一室だけ障子が仄かに橙色に灯されている。山田方谷と、ご家老である。ご家老は詰問するような視線で、先日の近習見習騒動のことを話していた。


「あんなほくろを見たのは、生涯で一度きりだ」


 近習見習とほくろ、というのは一見すると関連性のない語句である。もう少し話をじっくり聞いてみるとしよう。


「お主が言うたのだぞ。あの子供は、自分が責任をもって処遇を決めると。それがどうして、谷家の三男坊として城へ上がってくる」


「さて、ご家老様の見間違いではありませんか」


 ご家老は耳をとんとんと指して「見間違えるものか」と声を荒げる。かつて方谷に一人の赤子を預ける際、彼はその子供の奇妙なほくろから、その子がそうした「奇妙」な運命の下にあることを悟った。右耳の裏にほくろが三つ、きれいな三角形を成している。


 不憫な子だ。


 出生からして、そうであった。もしも行方をくらませた母親が今少し高貴であれば。もしも二、三年早く産まれて居れば、この子はこんな目に遭うことはなかったろう。

 あの時はあれほど同情したはずなのに、いざ戻ってくるとただただ恐ろしい。まさしくあの子はお家騒動暴発の危険を孕んだ火薬箱である。


 これほど狼狽の色を見せているというのに、方谷は泰然として姿勢を崩さない。「仮の話ですが」と前置きした。


「谷家のあの子が、落とし胤であるとして、何か不都合がありますか。我々の他にこの事を知る者はおりませんし、母親はとうに国を出て行方知らず。まさか騒動にはなりませんよ」


「……くれぐれも、誰にも知られてはならぬぞ。特に殿にはな」


「心得ております」


 こうして、この日の密談は幕を閉じた。しかし、二人が退室してからしばらく経って、もう一つの影が部屋から出て来たことを、闇だけが知っていた。


「殿に御落胤が? いや、そんなことより、これは……」


 この小さな山国に、一波乱の予感である。


 〇


 三十郎はどたばたと朝餉の席へ座り、飯が冷めたことを嫌がる母の視線も無視して千三郎の頭をわしづかみにした。


「千三郎、千三郎! お前、このほくろ、千三郎のほくろ!」


 母と万太郎も千三郎の可愛らしい耳の裏をのぞきこんだ。小さなほくろが三つ、三角形を成している。それを目にした二人は、顔を見合わせた。


「……今更驚くことでも無いでしょう? 千が赤ん坊のころからあるんですから」


「俺も風呂の時に見つけた」


「ただのほくろでないぞ! 見よ、この三角形を!」


 万太郎は目刺しをかじって「そりゃ、点が三つありゃ三角形だろ」と取り合わない。当の三十郎はこうした言葉は全く耳に入っていないようで、三十郎は狂信的な眼差しを向けている。

 いつも見ていた平凡で小さな茶碗が、数百両はくだらない井戸茶碗であったような心地である。

 勿論、そんな理屈の分からない亀は少々声を荒げた。


「いいからご飯を食べなさい。たかが目刺しといっても、うちの家計じゃご馳走ですよ」


「母上、もう苦労せずとも良いのです! 父上が生きていた頃のように、楽をさせてさしあげますよ!」


 亀は息子の大言壮語に首をかしげるばかりである。千三郎は兄に頭を掴まれたままだ。万太郎がこっそり顔を近づけて来た。見ると、三十郎の膳に箸を伸ばし、目刺しを二匹とも持って行った。


 その日、三兄弟は城下を歩いていた。町の視線は皆、彼らに向けられている。万太郎もまた、隣の兄が気になって仕方がない。家宝のように千三郎を抱きかかえ、いやに胸を張って歩くのである。そして時折、妙な笑い声をあげる。

 近習の兄は昨夜は城に残り、見廻りや寝所の番をしていたはずだ。その時に、何かあったのだろうか。はたまた寝不足で寝ぼけているだけだろうか。

「む!」と兄の顔がにわかに険しくなる。向こうから、彼と同じく近習を務める若い侍たちが闊歩してきた。皆、三十郎のことを良く思っていない者ばかりである。また城の外であるから、周囲を気にすることもない。「これはこれはでんでん殿」とからかってきた。


「今日は熊田殿がおられぬが、一人で出歩いて大丈夫かな?」


「おい。いくらこんな兄貴とはいえ、本当のこと言ったら駄目だろ」


「弟だっけ、それはむしろ谷殿に失礼じゃないかな」 


 その時、三十郎が「控えおろう」と銅鑼のような声をあげた。

 ギョッとして皆が固まる。これまでこんな強気に言い返すようなことは無かった。


「この子をなぁんと心得るか! この谷三十郎に逆らうことは、この子、すなわち殿に逆らうこと、よく覚えておけ!」


 一同の視線が、困惑する少年に集まる。もしや、ただの兄弟ではないのか? 言われてみればこの地味な顔の長男や仏頂面の次男と比べると、この三男はどことなく気品のある顔立ちをしている。

 誰かが「一体この子は何なんだ」と当然の疑問を零した。皆が困惑している。近習たちも、万太郎も、千三郎もである。


 三十郎はにまにまと笑うと、はち切れんばかりに息を吸って、言った。

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