第5回「死に損ねた男 その②」
「言えん!」
ズッコケる一同をよそに、三十郎は大股で城下町を歩きだした。
実に気持ちが良かった。
かつて、万太郎や熊田恰が方谷とこそこそ知り合っていた時はあんなに面白くなかったが、いざ自分が秘密を握る側に回ってみるとこんなに愉快なことはない。
対して千三郎は、漠然とした不安の波が押し寄せ、落ち着かないでいる。
「兄上……」
「どうした、千! お前も誇りに思ってよいぞ!」
「千は……千は兄上の弟ですよね」
「むっふっふ、それよりもっといい思いをさせてやる! いつぞやお前が姫様から頂いた菓子があったろう。あれを毎日食べられるようになるぞお!」
「……」
夕闇の迫る山麓に置いてけぼりにされたような淋しさ。それが千三郎の胸をギュッと締め付ける。夢のようだった菓子の味など、もうすっか里消え去ってしまった。
さて、カメラを一度三兄弟から離して、ズッコケている近習たちに寄せる。むっくり起き上がって、舌打ちをしたこの男。頬にはそばかす、女々しく長い睫毛。名を
「ちぇ。糞阿呆でんでん虫の三十郎のくせに、俺のこと怒鳴りやがって」
柘之進は、谷兄弟の事が大嫌いである。家の者たちが自分を「龍のよう、虎のよう」と気分よく褒めそやす中、しこたま厳しく稽古をつけてくる剣術師範の三治郎が気に入らなかった。そうした、裕福な家の子らしい逆恨みから連鎖して、今では三十郎の事が大嫌いなのである。
仲間たちと別れ、一人で屋敷へ歩く中、彼はうだうだと今日の実に腹立たしい出来事を反芻し、小石を蹴り飛ばしていた。
ふと、思い出す。
……なぜ糞阿呆マヌケでんでん虫の三十郎に逆らうことが、殿に逆らうことになるんだ。そしてその証左が、なぜあの三男坊なんだ。
その時、酒屋の看板娘が、考え事に耽る自分にぶつかって来た。きっとワザとに違いない。手打ちにしてやろうかと思ったが、睨みつけられた顔が怖いのでやめた。
そういえばこの娘は、あの家の糞阿呆マヌケでんでん虫の三十郎の弟、糞ボケ地蔵の万太郎と親しげに話していたのを見たことがある。
「おい娘、教えろ。谷殿の末弟は何者だ?」
娘は隠す理由もないのでつらつらと話した。あの子が生まれた頃、母親であろう谷家の妻女の腹が大きくなかったという噂も。
柘之進の中で何かがつながった。
まさか、御落胤か? それも、そんじょそこらの武家でなく……。
思い至る頃には、すでに凶悪な算段を組み立て終えていた。板倉公の御落胤を手中にすれば、もう昼間のような屈辱をあの三十郎から受けることはあるまい。
屋敷に帰ると、庭の向こうの厩舎から馬の嘶きと共に豪快な笑い声がする。行くとそこには、中間の男がしゃがみ込んで、先代藩主板倉勝職公から頂戴した名馬・黒王の巨大な身体を磨いている。
男は時折黒王に対して「ぎゃっはっはっは」と笑った。
黒王もまた、男に応えるようにして嘶くことがあった。
「おい左之助。仕事だ」
柘之進の言葉に、左之助という男は黒王の世話をやめて立ち上がった。
身丈は六尺ほどあろうかという高身長で、戦乱の時代の若武者のような逞しさと凛々しさを持った、中々の美丈夫である。
「いいか、谷家の三男坊を攫ってこい。あの家は馬鹿しかおらんが、どちらも腕が立つのが厄介なのだ」
「腕が立つのは望むところじゃが、なんで人攫いをせんといかん」
柘之進は得意の嘘八百を並べた。あの子が板倉公の御落胤であるが、賎しい谷家がそれを半ば無理やり奪いとり、自分たちの子だと言って育てている。このままではお家の騒動になりかねないので、どうか手を貸して欲しい…………と、こうした具合である。
「ふーむ、そいつはいかん! こっちの松山にも酷いワルが居たもんだ! うし、今から俺が行って来てやる!」
「そうだろう。ところでお前、中間のくせにその言葉遣いはどうだろうな」
「任せとけよツゲさん。俺がちゃちゃっとそいつら殺してくっからよ」
「ああ、任せ……え、何て?」
「その悪者一家を皆殺しにして、玉を奪い取って連れて来りゃいいわけだろ」
「ちょ、ちょっと待て」
「それにつけても許せねえ。主君の御子を私欲の為に囲い込むなど奸臣の極み。言語道断。君側の奸はお国を澱ませる糞虫だ。糞虫は殺さにゃ、お国の為にならん。一家全員突き殺して、首は河のほとりに晒しておこう」
つらつらと述べ終えると、左之助という男は制止もきかず、槍を担いで屋敷を飛び出してしまった。
「そこまでしろとは言ってない! 戻ってこい、左之助! 原田左之助!」
原田左之助。
後に、新選組幹部として幕末に名を残す男。故郷を出奔し、あてもなく諸国をめぐっている最中である。
「あ、その谷? とかいうやつの御屋敷っていうのはどこなんだろう」
原田左之助。
細かいことは考えない男。
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