第5回「死に損ねた男 その③」

 その日は赤く色づいた山々の上を、鰯の形をした雲が泳いでいた。



 暮れになると肌寒くなる季節である。夜更けには冷え切った露が板塀をつたう。


 その時、千三郎は中庭のメダカを見つめていた。

 幼い頃から、兄が手塩にかけて育てているメダカたちである。メダカたちは群を成すことも無く、各々が自由に、水鉢の中を泳いでいる。小さなメダカが、大きなメダカの尾ひれを追いかけている。


「……いいなあ」


「こんな小っちゃいメダカの何がいいんだ」


「小さなメダカが、親かどうかも分からぬメダカと一緒に泳いでいます。誰もそれを咎めない。小さなメダカも悩まない」


「そらメダカは悩まんだろ」


「そういう話じゃ……」


 振り向いた千三郎は言葉を失った。喋っていたのが全く見知らぬ男だということにやっと気づいたのである。原田左之助だ。


「お迎えに上がりました。共に参りましょう」


 左之助は腰の抜けた千三郎を俵のように担ぎ上げて、皆の寝静まっている谷家の屋敷を後にしようと立ち上がる。が、ぴたりとその足を止めた。首筋に冷たいものが当たったのである。鬼の形相をした三十郎が、短刀を抜身で持っていた。


「誰じゃお前は。板倉家の者では無いな」


「伊予松山脱藩、原田左之助。ツゲさん……いや、柘之進と言う男に頼まれて、お前ら奸臣の手からこの子を救いに来たのだ」


 拙い、と三十郎は思っていた。柘之進は昼間のことを恨んで、この刺客を差し向けたのだろう。そこまで事を大きくするつもりはなかったのに。そして何よりこの原田左之助という男、若年ながらかなり強い。その程度の力量を見極めることは、三十郎にもできる。

 攻めあぐねた三十郎の汗が額から顎へとつたった時、「兄貴」と声がした。見ると、父の形見の槍を持った万太郎が、襷掛けの袴姿で立っていた。まるでこちらが討ち入る側のようではないか。


「代わる。兄貴の手に負える相手じゃない」


「しかし……」


「調子に乗るから、こういう輩が屋敷に来るんだ。千を連れて逃げろ」


 三十郎の脳裏には渡邊昇と立ち会った日の光景があった。酒が入っていたとはいえ、自分が倒した相手に万太郎は敗れ去ったではないか。万太郎はそれを察したのか、「あのなあ」と槍を構えた。


「今日は兄貴の真似しなくていいから、伸び伸びやれるんだ」


「え、じゃああの時は……」


「そりゃ、代役なんだから足運びから何から真似せにゃならんだろ」


 万太郎は原田を連れて、裏山へ赴いた。いつも一人で修練をし、方谷と出会った荒寺。そこなら邪魔も入らぬと踏んだ。二人が砂利を蹴る音が、不気味なほどに閑静な山に響いている。


 万太郎はなぜだか笑っていた。

 ゾクゾクと武者震いがしていた。


 左之助もまた笑っていた。

 嬉しい誤算だった。国を出奔し、武者修行と称して各地を流浪していたが、流れ着いた山国にこれほどの男がいたとは思わなかった。


 二人はいよいよ、構え合った。流派は違えど、互いに大きな槍を相手の喉元に狙いを定める型を取っている。


「宝蔵院流、原田左之助」


「種田流、谷万太郎」


 この時の二人に、柘之進からの密命だとか、千三郎の出自だとか、そういった考え事は残っていなかった。ただ虎狼の如く、存分に得物を振るいたい。


 獣の咆哮が山中へと響いた。

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