第5回「死に損ねた男 その④」

 誰かが、自分を呼んでいる。


 板倉勝静は夢を見ていた。

 この聡明な殿様が山田方谷に命じて藩政改革を断行していることは、ご存知の通りである。その成果は上々。何年も赤字続きだった財政は、ようやく黒字の目途がつくようになった。


「伊賀守、伊賀守」


 自分を呼ぶ声。きょろきょろと見渡すと、鎌倉の大仏様のような大きな男がこちらを見下ろしている。その背後では、後光のように黄金の三つ葉葵が輝いていた。先の将軍・徳川家慶である。


「そちの国元での八面六臂の活躍、浄土まで聞き及んでおる」


「ひとえに御公儀の御為にございます」


「思い出すのう、そちが備中松山板倉家に養子へ行く前に話したことを。あの頃から、志の高い聡明叡智な若武者であった」


「私の想いはただ一つ。御公儀が執り行う政道をお支えすることでございます。その為なら、このど田舎の山国に越してくることも、口うるさい方谷に説教されるのも、何ということはございません」


 板倉勝静。

 この時の彼は、どこかの谷三十郎の人生と似ているような、はたまた全然違っているような人生を送っていた。

 先ず、彼には故郷と呼ぶに相応しい国が無かった。陸奥白河で産まれ、しばらくして国替によって伊勢桑名へと移った。さらに今は備中松山に移り、加えて参勤交代で江戸に住まう必要もある。

 そんな彼の心の郷土と呼べるのは、自身の出自であり、血縁としての徳川家。それが率いる御公儀、すなわち徳川幕府であった。

 またこの時、勝静は藩政改革の実力を認められ、幕府の奏者番に任じられている。城中での武家の礼式を管理するお役目で、大名たちが幕府で出世していく中での登竜門と言える位置にある。丁度、備中松山の侍たちが、まず近習を経て昇進してゆくのと同様である。


「その徳川家への忠義、まことに天晴。義妹でじゃじゃ馬の賀陽も、ようやく嫁ぎ先を見つけてやったそうではないか。そしてそれが我が遠縁! 益々頼りにしておるぞ」


「それは勿論なのですが上様、ひとつお尋ねしたき儀がございます」


「おお、なんじゃ。久方ぶりに顔を合わせたのだ、何でも言うてみよ」


「亡くなられた上様がどうして賀陽の婚姻のことをご存知なのでしょうか。死後、そのようなことを知る術があるのでしょうか」


「ズコーッ」


塗香ずこー? なぜコケながら香の名を」


「もうよいわ! 相変わらず細かいのお、伊賀守殿」


「なぜ急に改まるのです」


「そんなに嫌がらんでも良いではないか、伊賀守、殿」


「おやめください」


「伊賀守殿、伊賀守殿」


「おやめください、おやめください」


「殿、殿、殿」


「いい加減しつこいんですけど」




「殿! 谷三十郎でございます、殿!」



 ハッと気づいてみれば、寝所に近習の三十郎がいる。

 今日の不寝番は別の者であったはずだが。

 当の不寝番の近習たちは、三十郎をどうにか床から引きはがそうとしているが、三十郎は動かない。「お願いがございます」と、腕に抱いた末の弟千三郎をこちらへ差し出した。

 夜更けに騒ぎがおきたので、城中の者がばたばたと寝所へ駆けつけて来る。方谷やご家老に熊田恰といった重役たち、勝静の妻や賀陽姫の姿もある。三十郎はその視線に気づくことなく、さらに続けた。


「殿の御落胤であることは存じております。しかし私の不徳の致すところで、危険に晒すことになってしまいました」


「……」


「この上は、私は腹を切ってお詫びいたします。しかし何卒、千を殿の御子とお認めください。そしてどうか、城の中で庇護していただきたいのでございます」


「…………」


「殿!」


「………………」


 勝静は三十郎の腕の中にある子を見つめた。以前にも城へやって来たのを憶えている。確か、近習として侍らせてやったと思う。その子は自分の置かれている状況がわかっていないらしい。困惑した様子で兄にしがみ付いている。


 勝静は家臣一同が見つめる中、息を吸って、言った。


「方谷」


 山田方谷が、苦い顔をして立っている。自分が知り得ない松山の事は、大抵この男が裏でこそこそやっていることを、勝静は知っている。


「儂には子がおらん、この子供は一体誰じゃ」


 ご家老はどうにか人払いをしたが、皆一様に「御落胤」と口にしている。拙いことになった。奥の間では方谷が勝静と一部の皆を前に、静かに座っていた。しばらく黙っていたが、いよいよ覚悟を決めたらしい。村の翁が昔語りをするように、彼はぽつぽつと語り始めた。

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