第5回「死に損ねた男 その⑤」
千三郎は、賀陽が連れて行った。
その小さな体躯の中に、巨大な不安が渦巻いている。賀陽はその体を抱きしめた。
そして広間では、とうとう方谷が口を開いていた。
「あれは八年前のことでございます……」
「いや、そういうのは良い」
「え」
話の腰を折ったのは、板倉勝静。
「要点だけ簡潔に話せ。あの子供は一体誰の子じゃ」
「は、はあ……」
流石に備中松山を一手にあずかる板倉勝静。
あの山田方谷が振り回されている。三十郎はここまで狼狽える方谷を初めて見た。
方谷は目を瞑り、しばらく黙っていた。よく見ると、本人の中で葛藤があるようで小刻みに震えている。カッと目を開いた方谷の口から出たのは、意外な人物の名であった。
「……先代藩主、板倉
一同、騒然。三十郎は顎が外れんばかりに口をあんぐりとさせており、熊田恰も珍しく絶句している。板倉勝静もまた、目を丸くした様子で口を開いた。
「……方谷」
「はい」
「本編に登場しておらぬ人物ではないか。誰もわからんぞ」
一同、ズッコケ。
三十郎は頭から突っ込んだ襖から、熊田恰は天井からそれぞれ頭を抜いた。その脳裏には、在りし日の藩主の姿がありありと映っている。華やいだことが何より好きな人だった。お気に入りの羽織は目が痛くなるような朱で、これまた目がしばしばするような金色の蝶があしらわれてあった。
二人は、その藩主の事をよく知っていた。熊田恰は腕を組んで、小柄で人懐っこい顔の主君の顔を思い浮かべる。
「勝職様……破天荒で派手好きでいい加減なお方だった。藩の財政が傾いたのも、ほとんどは勝職様のせいなのだ」
「熊田よ、何故説明口調なのだ」
「ええ。しかしその枠に囚われぬ奔放さのおかげで、私は士分として取り立てられ、こうして松山の為に尽力しているのも事実」
「方谷、何故お前まで説明口調になる」
勝職の悩みは、実子が居ないことであった。そのため、桑名松平家から勝静を養子とすることで、家を永らえさせた。その時点で勝職は四十を越えており、実子の誕生については、勝職を含む皆が諦めていた。
方谷とご家老が、仰天して赤ん坊を見つめていたのは、養子となり新たに藩主となった勝静を迎え、勝職が病で臥せり始めた冬のことである。
「誰との子ですか……」
「看病をしておった侍女の一人と、まあ、そういうことになったそうで……」
「なんと……」
ご家老は胃のあたりを抑えながら、声を押し殺して言った。
「ここだけの話だが、殿は死に損ねた。せめてぽっくり亡くなっておれば、こんな面倒ごとには……兎に角だ、方谷。この事決して、新たな藩主様の耳には入れてはならんぞ」
「では、この子はどうするのですか?」
「任せる」
「え」
「お前の塾には子供も多い。赤ん坊が一人増えたところで、不思議はなかろう」
ご家老が言っているのは、方谷の私塾・牛麓舎のことである。そこには備中聖人と名高い方谷から直々に我が子の読み書きを教えてもらおうと、子を入門させる藩士たちも少なくなかった。
しかし、方谷は苦い顔をする。この頃は儒学者あがりの方谷を「田舎っぺ」と蔑む声が多かった。殊に最近家督を継いだ、熊田家当主・恰などは、酔うと「方谷斬るべし」などと物騒なことを叫んでいるときく。
かえって赤ん坊が危険だ、と伝えたが、ご家老は聞かない。「いいや、任せる」の一点張りである。自分が預かるよりは余程良いと思っているのだろう。
結局、方谷は門弟たちに助けてもらいながら、赤ん坊を数日世話した。しかし男だけでの世話となると、すぐに限界が来た。困ってしまった方谷は、裏山の荒寺で思案に耽っていた。侘しいこの寺に一人佇んでいると、考えも良くまとまった。するとその時。
「あんた、そこで何している」
槍を担いで仏頂面をした少年がこちらを窺っている。どうやら彼もまた、この荒寺を憩いの場としているらしかった。
「ちょっと、考え事をしてましてね」
「なんだそりゃ」
谷万太郎との出会いであった。
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